西川口キリスト教会 朴 思郁 協力牧師
「自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。」(マタイ20:14)
受難節の中、読み返してみる「ぶどう園の労働者」のたとえは、資本主義社会に生きている私たちには、なかなか納得できない内容かもしれません。ぶどう園の主人が行った行為がどうしても「公正性」という問題に引っかかってしまうからです。つまり、なぜぶどう園の主人は、一時間しか働いていない人たちに夜明けから丸一日働いた人たちと同じ賃金を支払ったのかということです。
主イエスは「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」と、たとえを締めくくられます。「先にいる者が後になる」という言葉には、私たち人間の中に潜んでいる「自己中心的な生き方」が指摘されています。そのような「自己中心的な生き方」に対して、ぶどう園の主人の言葉を通して異議を唱えるのです。「この最後の者にも」という言葉を通して「自己中心的な生き方」とは違う、「他者と共に生きる」生き方を示しているのです。それは言ってみれば、一番早くから働き始めた人が、一時間しか働けなかった人のことを思いやることで、自分と同じ賃金が支払われたことを自分のことのように共に喜ぶことです。
それは、資本主義的な論理に慣れ親しんだ現代社会に生きている人たちには馴染んでいない考え方かもしれません。しかし、私たちが信仰者として生きるとは、ただ単に宗教的な儀式や慣習を守ったり、特定の教理を覚え、それに伴う行為を行ったりすることではなく、自己中心的な生き方に満ちたこの社会の中で、「この最後の者にも」に示されている生き方をできる限り貫いていくことであると思います。それは決して易しいことではないと思います。しかし「この最後の者にも」に示されている生き方を最後まで貫かれた主イエスを見上げつつ、それぞれの生活に励んでいくことこそが今日を生きる信仰者の姿勢であると思います。