「民は皆、水の門の前にある広場に集まって一人の人のようになった。彼らは書記官エズラに主がイスラエルに授けられたモーセの律法の書を持ってくるように求めた。」(ネヘミヤ記8章1節)
バビロン捕囚から帰還した民は、再び神を礼拝するために集まった。そこには「男も女も、聞いて理解することのできる年齢に達した者は皆いた」。彼らの中に同じ人間は一人としていない。それにもかかわらず、彼らは「一人の人のように」なって礼拝をささげたのである。
「一人の人のように」なるとは、個々人が無視され強制的に均質化されることを意味しない。一人ひとりをかけがえのない大切なひとりとして造られた神は、礼拝に集う一人ひとりを大切に心にとめて下さる。そのような全くバラバラな、豊かに個性を持った我々に、神は「共に礼拝をささげよ」と命じられる。礼拝はまさに「共同作業」の場であり、心をあわせて、ひとつの共同体として、神様に礼拝をささげるという務めに任じられているのがキリスト者である。
「ひとつになる」ということは我々にとって非常に困難である。「自分の好み」というものを基準にして礼拝を眺め、「自分の好みに合ったもの」だけを個人的につまみ食いする、自分の要求をまず満足させるために礼拝を利用しようとするのは簡単である。しかし、そこに「共なる礼拝」は形成されない。全く個性的なこのわたしが、驚くほどそれぞれにユニークなあの人、この人の存在を喜んで受け入れ、そして一緒に、ひとつの礼拝をささげる務めに立つのだ、という信仰の決意、献身の決意を持ち寄り、礼拝をささげたい。「新会堂をささげる」という大きな働きに参加していく中で、同時に我々は「まことの礼拝をささげる」というテーマを真剣に持ち続けたい。;;”313″