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主日礼拝宣教要旨

2017年12月3日(日) 礼拝宣教要旨 「イエスの夢見た教会」 マタイによる福音書 25章31~46節

西川口キリスト教会 協力牧師 朴 思郁

「そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』」

マタイによる福音書25章40節

今日から始まるアドベントを通して、イエス様のご降誕の意味を改めて覚えつつ、今、ここで、クリスマスは何を意味するのかを考えるときになることを期待しています。今年は、「宗教改革500周年」になる節目の年です。「教会は常に改革されなければならない!」これは宗教改革のキャッチフレーズでした。教会が改革されなければならないとは、教会は常に「イエスの精神」に立ち返らなければならないということではないかと思います。言い換えれば、教会が忘れてはならないのは、何らかの制度や伝統ではなく「イエスの精神」、すなわち、イエスのまなざし、生きざま、こころざしを常に覚えて、それに応えていく生き方ではないでしょうか。

マタイによる福音書25:31-46に記されている「最後の審判」物語には、「イエスの精神」が鮮やかに示されています。その物語を吟味すると、「最後の審判」または「救い」の基準とは、次のようなことになります。1.飢えているときに食べさせること、2.のどが渇いているときに飲ませること、3.旅をしているときに宿を貸すこと、4.裸のときに着せること、5.病気のときに見舞すること、6.牢にいるときに訪ねること。イエスが物語る「六つの最後の審判の基準」には、いわゆる宗教的な真理論争や教義論争、礼典論争などは、一切見当たりません。もっぱら自分が「他者」をどんな目で見て、彼らとどんな関係をもって、どんな責任意識と連帯性をもって生きるのかが問われます。それこそが「最後の審判」の最も重要な基準なのです。

私たちは、一人ひとりが、また共同体として、イエスが言われた「最後の審判の基準」について真剣に省察し、それらを今日における政治、経済、文化など、多様な生の情況の中で、どのように実現していけるかを考え続けながら、一過性ではなく、ライフワークとして取り組んでいくことが求められていると思います。それこそがイエスの夢見た教会の姿であろうと思います。

 

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