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主日礼拝宣教要旨

2017年7月23日(日) 礼拝宣教要旨 「罪の報酬」 創世記3章1-13節

  宇都宮キリスト教会    天野  英二 牧師

「その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた。『どこにいるのか。』」(創世記3章8,9節)」

蛇は実に狡猾に創り主の与えた目的を見失い価値なきものとなる本質的な「死」と単なる生命活動という意味での「死」とをすり替えて人をそそのかし、禁じられた木の実を女が自分の意思で取って食べるように促す。
人は神に応答する存在として他の被造物にはない特別な目的を托されて最後に創造された。聖書では、神の創造のみわざは全て「良かった」と記されているが、「人」は蛇の狡猾な誘いに惑わされ、神に応答することを拒んで神の顔を避けて隠れ、「良かった」ものであったはずの自らの「からだ」を恥ずべきものとしてしまった。しかし、神は、そのように罪故に神を避けて隠れる「人」をなんとかして助け出そうと「どこにいるのか」と探される。神の手は、拒まない限り、求めるものにいつも差し出されている。
「人」は罪の報酬として、神との断絶という本質的な「死」を引き受けなくてはならない。しかし、同時に断絶を知る事によって「人」は始めて神の愛と恩寵なしに生きる事が出来ないこと、また、死の淵に立つものに対して情熱を持って注がれる深い愛と救いの手が差し伸べられている事を知る。
本来我々が負うべき罪の報酬である死を、御子イエスの命によって神みずからが引き受けるという凄まじき愛を、賢そうに見えるけれども愚かな「人」の知恵によって拒むのではなく、差し伸べられた手を素直に握りしめて神の凄まじき愛に共に包まれていこう。

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