西川口キリスト教会 斎藤 剛毅
「神は、あらゆる苦難に際して、わたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。」
コリントの信徒への手紙二1章4節
コリントの信徒への手紙二1章5節に「キリストの苦しみが満ちあふれて、私たちにも及んでいる」という驚くべき言葉に出会います。苦しみは避けたいものです。でも使徒パウロは「キリストが地上でお受けになった苦難の数々が「満ち溢れて私たちにも及ぶ」と語るのです。私たちに及ぶ、与えられる苦しみは無目的に与えられるのではなく、明確な目的を持つのです。それは第一に、キリストによる「満ち溢れる慰め」を体験することです。第二の目的は、私たちが主イエスから頂く慰めを体験して、あらゆる苦難の中にある人々を慰める力を持つ者とされることです。
ヘブライ人への手紙12章6-7節には「主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。あなたがたはこれを鍛錬として忍耐しなさい。」10-11節には「肉の父は暫くの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父は私たちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的で私たちを鍛えられるのです。」とあります。神様からの愛の鞭(苦しみ)は、神様の神聖にあずからせるためという目的が明記されています。神の神聖は十字架(犠牲的愛)と深く結びついています。
私たちは教会の歴史の中に、十字架を負い続けられる主イエス様の姿を見ることが出来ます。復活後2000年以上変らず、イエス様は十字架を負い、苦しみ続けてこられたということ、即ち神のために十字架を負い苦しむ人々と共に苦しみを共にされる方が復活の主イエス様であることを、私たちは聖書から読み取るのです。
その実例として、20世紀初頭アルメニアで起きたクリスチャン虐殺事件におけるキリストの顕現。ドイツの強制収容所で身代わりの死を遂げられたコルベ神父。この世の底辺にある孤独で悲しく誰からも相手にされないと感じている人々の友となったカルカッタでのマザー・テレサの働きの中に復活された御子イエス様の働きを見ることが出来ると思います。