2016年5月22日(日) 西川口キリスト教会 斎藤信一郎
主題)「誓うということ」 マタイによる福音書5章33-37節
「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。…」(33-34a節)
聖書では、誓いを立てることは罪ではありません。しかし、主イエスが生きておられた時代には誓いにも必ず果たさなければならないものと、そうでないものとが存在したようです。当時必ず果たさなければならないとされていたのが、神を指して誓った場合です。
これに対して今回の例話でも登場するように、天・地・エルサレム・頭などを指して誓う場合には誓いを果たせなくても赦されると理解されていたのです。しかし、主イエスは、誓いはすべて神が聞いておられ、またそれらの場所にも神は深く関わっておられるゆえ、軽々しく誓いを立てることを止め、破ることが前提になっているような誓いは一切しない方が良いと教えられました。
約束や誓いというものは、常に責任を持って果たすことが前提でなければならないというのが主イエスが語られた趣旨だと考えられます。
現代に生きる私たちの場合にもどうでしょうか。あまりにも約束が軽く交わされている現実はないでしょうか。
実際、約束が必ずしも果たされないために契約書が存在すると言えます。それでも私たちには希望があります。
主イエスが導いて下さる天国では、契約書は必要ありません。契約違反の罰則も必要ありません。担保を取る必要もありませんし、お金をしまっておく金庫なども必要ありません。
何故なら、だれも約束を破ったり、だましたり、手を抜いたり、盗んだりすることを心配する必要がないからです。
そのような天国に私たちは招かれているのですから、この世にいる間から神の目に正しい生活習慣を身に着けて参りましょう。
主イエスも常にそれを心がけて下さいました。そして主イエスはいつも自分にできることは「はい、します。」できないことは「いいえ、できません。」とはっきりさせて生活されました。
私たちの良き模範なのです。