2016年3月13日(日) 礼拝宣教要旨 西川口キリスト教会 斎藤信一郎
主題)「十分の一を献げる信仰」 創世記14章17-24節
「 いと高き神の祭司であったサレムの王メルキゼデクも、パンとぶどう酒を持って来た。」(18節)
アブラムは命がけで甥のロト一族と財産を無事取り戻すことができました。しかも、巨大な連合軍を相手にしての大勝利でした。そのアブラム一行が凱旋して戻って来たとき、逃げていたソドムの王とサレムの王が出迎えました。後者の王はイエス・キリストを指し示す重要な人物として新約聖書でも語られています。サレムとは平和を意味する言葉です。この地域がやがて神の平和を意味するエルサレムになって行ったと考えられています。その王であったメルキゼデクは祭司でもあり、アブラムのもとへパンとぶどう酒を持って来ます。人類の王にして永遠の大祭司と言われる主イエスが弟子たちと行った主の晩餐を連想させます。
そのメルキゼデクがアブラムに語った祝福の言葉が印象的です。19節には「天地の造り主、いと高き神に/アブラムは祝福されますように。」とあります。彼はアブラムを絶体絶命の危機から救い出し、桁外れの勝利をもたらしたのは天地創造の神だということを明らかにし、アブラムにその事実に目を向けるように導きます。それを理解した証拠に、アブラムは22節でこの言葉をそっくり自分の会話に用いています。そしてアブラムはこれに応えて最大限の敬意を表し、全ての戦利品の中から十分の一をメルキゼデクに捧げます。
今日の箇所は、教会で献げられる十分の一献金についての聖書に出てくる最初の重要な箇所です。ここにはどのような信仰が込められているのでしょうか。十分の一献金とは第一義的には私たちの人生と命そのものを守り、祝福しておられる神への最大限の感謝を表す特別な献げものだということです。他の感謝の献げものとは一線を画す献げものです。