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主日礼拝宣教要旨

2015年4月3日 (金)受難日夕拝説教「神の国のために」ルカによる福音書22章7~20節 (斎藤信一郎牧師)

「神の国のために」 2015年4月3日(金)受難日夕拝説教 ルカによる福音書22章7~20節

 
受難週の中でも金曜日は朝早くから主イエスがユダヤ人の最高法院で不当な裁判を受け、目隠しをされ、殴られ、つばきをかけられ、次にピラトのもとで尋問を受け、死刑判決を受け、いばらの冠と紫の衣を着せられ、芦の棒で頭を叩かれ、ローマ兵に侮辱され、平手打ちされ、十字架を担がされてゴルゴタの丘で十字架に付けられてこの地上から命を奪われた日です。それゆえ受難日とも言われる日ですが、本当の受難日はこのあとの日没から始まる安息日ではなかったかと思わされます。それはどういうことなのか、今回は十字架の後まで続いて行った主の計り知れないご受難に思いを向けたいと思います。

主イエス・キリストは確かにこの世に私たちと同じように、またそれ以上に肉体的にも、精神的にも多くの試練に遭われました。肉体的には40日40夜の断食を経験され、ほとんど寝る間もないような状態で多くの人々を癒して行かれたこともあり、極めつけは十字架に架けられて拷問を受けながら死んでいかれました。精神的には弟子たち裏切られ、ユダヤ教の最高法院で神への冒涜罪で有罪判決を受け、民衆からは死刑にすべきだと罵られました。無視一匹も殺したことのないようなお方が迎えるにはあまりにも痛ましい無念の最後を遂げて行かれました。

十字架に付けられたのは朝の9時、これが午後の3時まで6時間続いたと言います。この6時間でさえ私たちにとっては永遠に思えるような時間であったはずですが、それを上回る30時間ほどの時間を主イエスは死者の世界で過ごされたのです。そして、それは安息日がすっぽりとまる一日24時間含まれていたのです。それが何を意味するのか、それがどれほど重要な意味を持つのか、それを理解し、そこで主が経験された神の裁きを理解することが私たちの罪をあがなって下さったことの真の意味を理解する上でとても重要です。

ご存知の方も多いと思いますが、ユダヤ歴では一日は日没から始まります。主イエスが十字架に架けられたのは金曜の朝でなくなったのが金曜日の終わり頃の3時過ぎでした。その後日没から始まる安息日に備えて急いで主イエスが死んでいることを確認し、十字架から降ろされた後で取り敢えず墓に納められました。そしてすぐに安息日が始まり、翌日土曜日の日没からは日曜日になります。聖書には三日後に復活されたともともと書いてありません。正確には三日目に復活すると主イエスも預言していますが、それが意味することは金曜日から日曜日までの3日を含むことを言っているのであって、実際には主イエスが死の世界におられたのは一日以上、二日未満だと考えられます。亡くなったのは金曜日が終わろうとしていた夕方で、復活されたのは日曜日になってからということになります。

いずれにしても確実に言えることは主イエスは安息日だけ、まるまる24時間死の世界におられたということです。使徒信条には「黄泉に下り」とありますし、ヨハネ福音書では復活後に主イエスはマグダラのマリアに「まだ父の元に戻っていない」ことを語っていますので、主イエスは死んですぐに天に戻られたのではないことが明確です。つまり、重要なのは主イエスが人類始まって以来、安息日の主であるお方が、この地上における安息日に初めて礼拝を欠席しなければならなかったということです。つまりこの地上において主イエス・キリストが不在だった安息日が今日まで一度だけ存在するということです。それが主イエスが十字架に付けられて殺され、天国とは違う死者の世界で過ごさなければならなかった安息日です。

主イエスは天地創造された時から存在されていたお方です。そして常に安息日の主として礼拝の場におられたお方です。主イエスがこの地上に二千年前に生まれて来られた時も、死ぬ時まで安息日の礼拝を欠かしたという記述がありません。ご両親も安息日を重んじたことでしょう。従って、主イエスは常に安息日に存在し続けて下さったお方でした。今日も主イエスは私たちの礼拝の中心に喜んでいて下さる方です。本来なら永遠に寸断することなく、安息日の主でいて下さるべきお方です。そのお方が不在の安息日が人類史上ただ一度だけ存在します。そうです。そしてそれは逆に言えば、安息日の主として永遠に存在されるべきお方が礼拝の中心にいることを奪われた日でもあるのです。主イエス・キリストは私たちの罪を背負い、私たちこそ奪われなければならなかったはずの礼拝のために、出席する権利を放棄して下さったのです。それが神の子主イエス・キリストにとってどれほどつらく耐え難いことだったことでしょうか。主イエス・キリストが不在だったその人類史上ただ一度切りの安息日はどれほど空虚でむなしいものだったことでしょうか。そして、その安息日の24時間が主イエス・キリストにとってどれほど永遠に思える時間だったでしょうか。ここに十字架の後のもう一つの神の子主イエス・キリストのご受難があるのです。

現在、私たちが捧げている受難日礼拝は聖書でいうまさに金曜日の日没後、つまり主イエス・キリストが不在だった安息日の時に丁度いるのです。主イエス・キリストがおられない礼拝を私たちは想像できるでしょうか。主イエス・キリストが出席できないで苦しみ続けられた礼拝の日を想像できるでしょうか。十字架の後にも続いた主の苦しみ、ご受難とは、礼拝から遠ざけられるというご受難です。こうして主イエス・キリストは本当の意味で私たちのすべての罪の責任をご自身に負われたということができます。それほどまでして私たちを共に真の神を礼拝する者にして下さろうとされた主イエス・キリストのご受難に改めて感謝し栄光を主に帰したいと思います。共に祈りましょう。

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