「主の御名をあがめる姿勢」 2015年2月15日 詩編46編11節(口語訳10節)
46章11節「力を捨てよ、知れ/わたしは神。国々にあがめられ、この地であがめられる。」
46章10節 「静まって、わたしこそ神であることを知れ。わたしはもろもろの国民のうちにあがめられ、全地にあがめられる」。
今回は主の祈りの最初の祈りの後半部分「御名をあがめさせたまえ」を取り上げます。この祈りを私たちはどのように心をこめて祈ればいいのでしょうか。二つの御言葉に聞いて参ります。ひとつは上記の詩編46編11節の御言葉です。神は全世界で、そして私たちの国でも崇められ、礼拝されるべきお方だという内容ですが、そのためには11節冒頭で「力を捨てよ」と教えています。まずは私たちの側の一切の力みを捨てるということです。口語訳では同じ個所を「静まって、わたしこそ神であることを知れ。」と訳しています。神に祈るという意識の前に神が私たちにどのような祈りを期待しておられるのか、静まって神の側に視点を移すことを教えられます。その上でペトロの第二の手紙3章8節の御言葉についても考えてみたいと思います。「愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。」とあります。神は私たちとは別次元の時間の概念と感じ方を持っておられることが表現されています。私たちにとってはたかだか1日に過ぎない時間の経過も、神にとっては一日は千年ぶりのことのように感じられる時間の経過であるということです。そう考えると、神にとって1週間ぶりに私たちと再会を果たして行われる礼拝がどれほど待ち遠しいものであるかが想像できます。1日ぶりに私たちが唱える主の祈りや個人的な祈りであっても、神にとってはどれほど楽しみに待って下さっていた祈りの時間であるかがわかってきます。神はそれほどまでに私たちの礼拝や祈りを大切なひと時と捉えて下さっていることを知るならば、主の御名をあがめて礼拝し、祈る姿勢にも違いが生じるのではないでしょうか。力を捨て、静まって共に主の御前に祈り、礼拝する者となりましょう。