「父なる神との距離」 2015年1月25日 ガラテヤの信徒への手紙4章6節
4:6 あなたがたが子であることは、神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。
主の祈りの2番目のポイントは「われらの父よ」のところにあります。主イエスの時代に神を父と呼ぶことは神を冒涜しているとみなされる言葉でした。ですからその逆に人間が自分のことを神の子と名乗ることも同じくあってはならないことでした。しかも神の子という言葉には当時「メシア」あるいは「救いをもたらす者」という意味もありました。だからこそ、主イエスが荒野で「神の子なら、これらの石がパンに」とか「神の子なら、飛び降りたら」と悪魔に誘惑され、悪霊たちからは「神の子、構わないでくれ」と言われ、大祭司からは「神の子、メシアなのか」と尋問され、十字架の周りにいた人々から「神の子なら、自分を救ってみろ」という言葉を投げかけられたのです。しかし、主イエスはペトロが告白したように正真正銘「あなたはメシア、生ける神の子」だったのです。父なる神をアッバ=お父さんと呼ぶのにふさわしいお方は主イエス以外にいません。それにもかかわらず、私たちはクリスチャンになる時に心に神の御子、すなわちキリストの霊を送っていただけるのです。そして私たちは主イエスと同じく神の子とさえ呼んでいただけるのです。それはとりもなおさず私たちが主イエス同様に救いをもたらす者の側に置かれるということです。とても恐れ多いことですが、これを理解した上で主の祈りの言葉をもう一度考えてみる時、「我らの父よ」の「我ら」とは、実は主イエスと私たちということになります。主イエスは私の父と祈らず、私たちの父と祈って下さっているのです。本来天の父なる神に祈る資格のないような私たちを始めから同じ主の側において祈って下さるのが主の祈りです。この有り難き恵みに畏れと感謝をもって主の祈りを祈る者とされていきましょう。