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主日礼拝宣教要旨

「神様の知恵を求めて生きる者」朴 志煥 協力牧師

2026年10月11日 礼拝宣教要旨
聖書箇所:箴言8章1〜3、32〜36節

「わたしを見いだす者は、命を見いだし/主に喜び迎えていただくことができる」

箴言 8章35節

 箴言8章で、知恵は町の高い所、道のほとり、四つ角、城門の傍らに立って呼びかけています。知恵がいるのは学校でも王宮でもなく、人の行き交う日常のただ中です。しかも「呼ばわる」と訳された言葉は、詩編32編11節では「喜びの声をあげる」と訳されています。知恵は、喜びの声を上げながら私たちを招いているのです。
 世の中では、多くの知識や情報を持つことが成功への道だと考えられています。しかし、何が正しいかを知っていても、それを行えるとは限りません。聖書が語る知恵とは、神さまの御心を理解し、正しく判断して生きる力です。
この知恵は、特別な人だけに与えられるものではありません。軍隊で信仰生活を諦めかけていた私も、み言葉を求めて祈り始めたとき、辛い日々の中で感謝の心が与えられ、もう一度神さまのもとへ導かれました。
 32節の冒頭には「そして今」を意味する言葉があります。いつかではなく、今、ここで、知恵は「聞け」と呼びかけています。そして35節の「主に喜び迎えていただく」は、直訳すると「主から喜びをいただく」となります。知恵に聞き従う歩みは、重い義務ではなく、喜びへの招きなのです。
 イエスさまは「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」と言われました(マタイによる福音書10章16節)。「賢く」とは注意深く分別があること、「素直」とは混じりけがなく、害を与えないことです。人にはそれぞれ、目に見えない「取扱説明書」があります。相手が何に傷つき、何を喜ぶのかに心を配り、悪意なく、思慮深く言葉を選ぶこと。それが、日々の中で知恵を生きるということです。
 その知恵に生きた人が、「慰めの子」と呼ばれたバルナバでした。彼は自分の畑を売ってささげ、誰もが恐れて信じようとしなかったサウロのために立ちました。彼がそのように人を慰め、励ます者となれたのは、能力や知識によるのではなく、「聖霊と信仰とに満ちていた」からでした(使徒言行録11章24節)。
神さまの知恵は、書物や情報によって獲得するものではなく、聖霊の助けによって与えられるものです(エフェソの信徒への手紙1章17節)。だからこそ私たちは、知恵を求めて祈ります。
 知恵は、今日も日常の四つ角で呼びかけています。その声に聞き従う者は、命を見いだすのです。

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