ようこそ西川口キリスト教会のホームページへ

地域と共に歩む桜並木の教会

教会員ページ
主日礼拝宣教要旨

「主よ、お話しください」 朴 思郁 牧師

「主よ、お話しください。僕は聞いております」

サムエル記上 3章9節

 「そのころ、主の言葉が臨むことは少なく、幻が示されることもまれであった」(3章1節)。祭司エリは目がかすみ、神の言葉が語られなくなって久しい時代でした。それでも「まだ神のともし火は消えて」いない夜、少年サムエルに初めて主の呼びかけが臨みます。
 ところがサムエルは、その声を聞き分けられません。「サムエルはまだ主を知らなかった」(7節)。三度呼ばれて、三度ともエリのもとへ走ります。声は聞こえていても、それが誰の声なのか分からないのです。私たちの信仰の始まりも、たいていはそうではないでしょうか。そのサムエルに、エリが教えます。「『主よ、お話しください。僕は聞いております』と言いなさい」(9節)。目がかすみ、力の衰えたエリが、四度目に「それは主だ」と気づき、少年を神の前へと送り出しました。信仰は自分ひとりで無から生み出すものではなく、誰かが「それは主が呼んでおられるのだ」と教えてくれるところから始まります。
 サムエルの応答は、エリに教えられた言葉をそのまま口にした、いわば借り物の言葉でした。けれども聖書は、その言葉を少年の信仰の応答として記録します。主の祈りも、讃美歌も、交読文も、先に信じた人々が磨き上げ、手渡してくれた言葉です。言葉を借りることは信仰の未熟さではなく、むしろ信仰が世代を超えて流れていることのしるしです。そして応答の中心は「聞いております」の一語にあります。信仰の出発点は、神が語られる方であり、私たちが聞く者とされることにあるのです。
 この後サムエルが聞かされたのは、エリ一族への厳しい預言でした。それでもエリは「隠さず、すべて語りなさい」と促し、少年の言葉を「それは主がお語りになったのだ」と受け止めます。長く語る者であった老人が聞く者となり、聞く者であった少年が語る者とされる。今週の聖書教育は、この対照的な転換こそ、教会に起こされる大切な転換だと語ります。
 灰の下に埋められた火種のように、神の言葉は消えていません。それは私たちが起こした火ではなく、神ご自身が守っておられる火です。委ねられているのは、火を作り出すことではなく、灰を掻き分け、そっと息を吹きかけること――一人の隣に立ち、「それは主が呼んでおられるのだ」と教えることです。「主よ、お話しください。僕は聞いております」。この一言を握りしめ、「共に仕え、共に育つ」群れとして、新しい一週間を歩んでまいりましょう。

関連記事

PAGE TOP