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主日礼拝宣教要旨

「神のものとして生きる」 朴 思郁 牧師

2026年3月8日(日) 主日礼拝 宣教要旨
聖書箇所:マルコによる福音書12章13-17節

「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」

マルコによる福音書12章17節

 本日の聖書箇所は、ファリサイ派とヘロデ派の人々がイエス様を言葉の罠に陥れようとしてやって来る場面です。本来対立する二つのグループが手を組み、「皇帝に税金を納めることは律法に適っているか」という巧妙な問いをぶつけました。どちらに答えても罠にはまるよう仕掛けられたこの問いに対し、イエス様は銀貨を示しながら「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と答えられました。この言葉は、私たちが「この世の現実」と「神への責任」の間でどう生きるかを問いかけています。
 第一に、「人の顔を見ない——言葉じりをとらえようとする問いかけ」を見てまいります。ファリサイ派とヘロデ派は、イエス様のことを「だれをもはばからない方」と言いました。直訳すると「人の顔を見ない」です。表向きは賛辞ですが、本音は「現実を見ていない世間知らずだ」という思いだったのではないでしょうか。しかしイエス様は、彼らの「下心を見抜いて」おられました(12章15節)。むしろイエス様こそ、人の顔を真っ直ぐに見てこられた方——人の内面にある思いも罪も嘆きも全て知っておられる方でした。そしてそれらを丸ごと受け止めて、十字架へと向かわれたのです。
 第二に、「銀貨を見なさい——現実と向き合う問いかけ」を考えます。イエス様が「銀貨を持って来て見せなさい」と言われたとき、彼らは否応なく、自分たちがローマ帝国の支配下に置かれているという現実と向き合わされました。銀貨には皇帝ティベリウスの肖像と「ローマ皇帝は神の子である」という銘が刻まれていました。「人の顔を見ない」と語った彼らこそ、自分が置かれた現実から目を逸らしていたのです。イエス様は、私たちにも自分の置かれた現実を神の前に正直に見つめ、その中でどう生きるかを問われているのです。
 第三に、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に——二つの務めの間で生きる」について学びます。イエス様のこの言葉は、「この世の務め」と「神への務め」という二つの責任を示しています。信仰の歩みは、神に従っていれば他の問題を投げ出してよいということではありません。同時に、神への責任を土台としなければ、この世の務めも果たすことはできません。「こうしたい理想」と「できない現実」のジレンマに置かれる時も、「神のものは神に返す」という原点に立ち返ることが、私たちを支えます。私たちの命も、時間も、才能も、全て神様からのいただきものです。それを神様のために用いていくこと——その土台の上で、この世の只中を「神のもの」として生き抜くことが、私たちへの招きなのです。
 イエス様は私たちの下心も弱さも全てご存知のうえで、なおも共に歩んでくださいます。「神のものは神に返しなさい」は、私たちを縛る言葉ではなく、自由にする言葉です。この世の現実の重さに押しつぶされそうになる時にこそ、「私は神のものとして生かされている」という確信を新たにしてまいりましょう。その確信が、日常を神への礼拝として捧げていく力の源となります。

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