2026年1月18日(日) 主日礼拝 宣教要旨
聖書箇所:マルコによる福音書2章23-28節
「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。」
マルコによる福音書2:27
マルコによる福音書2章23〜28節は、安息日に麦畑を通られたイエス様と弟子たちの出来事を記しています。弟子たちが麦の穂を摘んで食べ始めたことに対し、ファリサイ派の人々は安息日規定違反だと抗議しました。この出来事を通してイエス様は、神様の律法の本来の意味と、ご自身の優先順位を明らかにされました。
第一に、聖書は「安息日の本来の意味」を教えています。出エジプト記23章12節には、安息日が「女奴隷の子や寄留者が元気を回復するため」に定められたと記されています。一家の中で最も弱い立場の人たちが最初に挙げられ、彼らの休息のために主人の方が仕事を「やめねばならなかった」のです。安息日は本来、日々の労苦から心身ともに解放される「お休みの一日」でした。しかし時代が下るにつれ細々とした規則が設けられ、人を解放する日から人を縛る日へと変質してしまいました。
第二に、聖書は「本末転倒への警告」を示しています。イエス様は、空腹だったダビデが祭司しか食べてはならない供えのパンを食べた出来事を引用されました。人間の命と必要は、儀式的な規定よりも優先されるべきだという原則です。ファリサイ派の人々は空腹よりも規定を守ることを重視しました。これこそが「本末転倒」です。本来の目的である大切な部分を疎かにし、手段を目的化してしまうこと。私たちの信仰生活においても、礼拝や奉仕がその本来の意味を見失い、重荷となってしまうならば、それは本末転倒と言わざるを得ません。
第三に、聖書は「人の子は安息日の主」であることを宣言しています。イエス様は「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」と言われました。安息日は人間に仕えるべきものであり、人間が安息日に仕えるのではないのです。続く3章では、イエス様は安息日に片手の萎えた人を癒されました。「善を行わないのは悪を行うことと同じ」と言われ、規則よりも人間、形式よりもいのちを優先されたのです。イエス様にとって最も大切なことは、目の前にいる一人の人間を愛し、その人を苦しみから解放することでした。
イエス様の優先順位は明確です。人間のいのちと尊厳が、何よりも大切にされるべきものです。規則や形式はそれ自体が目的ではなく、人を生かすための手段です。私たちの教会生活や日常生活の中で、本末転倒になっていることはないでしょうか。イエス様は規則や慣習に縛られることなく、堂々と弱い者の側に立たれました。「安息日は、人のために定められた」。この言葉は私たちの信仰生活全体に当てはまります。礼拝は人のためにあり、教会は人のためにあります。すべての宗教的な営みは、神様を愛し、人を愛するためにあるのです。この一週間、私たちもイエス様の優先順位に倣い、目の前にいる一人ひとりを大切にし、神様の愛を具体的に示していく者でありたいと願います。