2025年10月19日(日) 主日礼拝
聖書箇所:ヨナ書3章1-10節
「苦難の中で、わたしが叫ぶと主は答えてくださった。陰府の底から、助けを求めるとわたしの声を聞いてくださった。」
ヨナ書3章8節
ヨナ書3章1~10節は、魚の腹から救い出されたヨナが、再び神様の召命を受けてニネベに向かい、その警告を聞いた人々が速やかに悔い改めた場面です。10月の月間主題「奉仕と献身」の第3週として、私たちは「ひたすら、神に向かって」という悔い改めの本質について、重要な教訓を受け取ります。
第一に、聖書は「自分事として受け止める信仰」を教えています。ニネベの人々は、ヨナの言葉を疑うことも嘲笑することもなく、速やかに真剣に、自分のこととして受け止めました。一方、選ばれた民イスラエルは、しばしば預言者の警告を軽んじました。イエス様は「何と書いてあるか」だけでなく、「あなたはそれをどう読んでいるか」と問われました。神様の言葉を知識として知っているだけでは十分ではありません。その言葉を、今、ここで、私に向けられた言葉として受け止めること——それが問われているのです。
第二に、聖書は「具体的な方向転換としての悔い改め」を示しています。ニネベの王は王座から降り、王衣を脱ぎ捨て、粗布をまとって灰の上に座しました。そして命じました。「ひたすら神に祈願せよ。おのおの悪の道を離れ、その手から不法を捨てよ」。悔い改めとは方向転換です。単なる後悔や反省ではなく、人ではなく神に顔を向けること、そして日々の歩みから実際に方向を変えることです。私たちの日常生活の中で、人を傷つける言葉、不誠実な態度、自分の利益だけを優先する姿勢——それらから離れ、神様が喜ばれる具体的な生き方へと転換することが求められています。
第三に、聖書は「思い直してくださる神の憐れみ」を告白させています。神は生きて働き、私たちの応答に耳を傾けておられます。神は一方的に宣告するだけでなく、私たちの応答を待っておられます。それは神が弱いからではなく、神が愛であるからです。ニネベの王の「我々は滅びを免れるかもしれない」という言葉に、信仰の謙虚さがあります。悔い改めは神の憐れみを操作する手段ではなく、ただ神の憐れみに身を委ねる姿勢です。神の憐れみは「朝ごとに新しい」(哀歌3:22-23)ものであり、神は「滅ぼしたい」のではなく、「立ち返ってほしい」と願っておられるのです(エゼキエル書18章23節)。
現代において「ひたすら神に向かって」生きるとは、①毎日神の言葉に耳を傾け、②日々の小さな選択で神の方向を選び取り、③失敗したとき神の憐れみに立ち返ることです。完璧に生きることは誰にもできません。しかし「主よ、憐れんでください」と祈り、もう一度神様に向き直る――これが信仰の歩みです。私たちの教会もまた、「共に悔い改め、共に方向転換する共同体」として召されています。大切なのは完璧であることではなく、神に向かい続けることです。転んでも、また立ち上がる。道を外れても、また神に立ち返る。その繰り返しの中に、信仰の成長があるのです。