2025年8月10日(日)
平和主日礼拝 宣教要旨
聖書箇所:マルコによる福音書 16章7節
さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。
マルコによる福音書 16章7節
『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。
かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」
イエスの復活の記事から二つのことを分かち合いたいと思います。
一つは、「ガリラヤへ行く」いう意味についてです。ガリラヤ出身の弟子たちがイエスに従ってエルサレムまで旅をしてきた行程は、彼らにとって日常とは少し違う、ハレの舞台だったと思われます。イエス様に大きな期待をもってついてきました。ちょうど過越しの祭りの時でした。エルサレム入城では民衆からの大歓迎も受けます。しかしその数日後、事態は一転しイエスは十字架刑になるのです。そんな大混乱の中で、3人の女性から弟子たちが受けた伝言が冒頭の聖句です。「ハレの場所、エルサレムに隠れていないで、ガリラヤへ行け」と言うことは、わたしたちも教会から出ていき、わたしたちの生活する日常の場で復活のイエスに出会いなさいと言うことです。しかもわたしたちよりも先に、イエスはそこへいらしているのです。
もう一つは、「山でイエスと出会うこと」についてです。マタイによる福音書には「11人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。」とあります。そこで弟子たちは「すべての民を私の弟子にしなさい」という大宣教命令を受けます。復活される前のイエスも、大切なことを山でなさいました。「山上の説教」をされたのは、高齢者も小さな子ども連れの女性も病のある人も支えてもらいながら登れるなだらかな丘のような山だったでしょう。祈るためにイエスは1人山に登られました。3人の弟子だけを連れて登った高い山ではイエスの姿が変わり、そこにモーセとエリヤが現れてイエスと語りました。山に登るという行為そのものが、日常の雑多なところから少し距離をおき、神と出会うため自らを整えることだとも言えます。日常で出会うイエスがあると同時に、山でしか出会えないイエスもあるのです。
平和主日の今日、先の戦争の過ちや原爆の悲惨さを記憶しつないでいく大切さと同時に、わたしたちの日常に平和をつくり出す大切さを覚えます。あらゆる良い状態、最高の幸福である「シャローム」のための働きはどんな小さなことでも平和の神である神様の御業に与ることになります。疑い、間違いを冒してしまう私たちをすべて受け入れたうえでそれでも弟子として派遣してくださる主が、私たちを平和の道具として用いてくださいますように。