2023年5月14日(日) 礼拝宣教要旨
聖書箇所:コリントの信徒への手紙一 9章19-23節
「福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。」
コリントの信徒への手紙一 9章23節
パウロがこの手紙の中で伝えようとしている「自由」とは一体誰のために、また何を目的としているのか、そしてその自由は何によって与えられるのか、いわば「パウロの自由理解」を3つの観点で見ていきます。
まず律法に支配されている人、いない人、弱い人、すべての人が福音にあずかるためにパウロに自由が与えられました。「すべての人の奴隷になる」というパウロの言葉には使命感、生涯を賭して福音を宣教するという決意が感じられます。彼はコリント教会の信徒たちに向けて福音を宣べ伝え続け、互いに相手のことを認められる信仰に至るよう牧会をしています。
次にパウロ自身が福音に生きられるための自由が神の恵みによって与えられました。パウロは主イエスに出会うまで熱心に律法を追い求め、律法に厳格な生活を送ってきましたが、イエスとの出会いを通して、それまでの人生が 180 度変えられ、真逆の価値観に至ります。パウロが変えられたきっかけは、イエスを心のうちに迎え入れた、つまり自分の中心をイエスに明け渡したということです。
最後は弱さが与えられたことでパウロは自由になったということです。パウロには肉体的な棘が与えられていたと告白しています(コリントの信徒への手紙二 12 章 7 節~10 節)。パウロに与えられた肉体的な棘とは一説によると目の病、マラリア、偏頭痛やてんかんだったのではないかと考えられています。パウロの身の上に弱さが与えられなかったら、もしかしたらその順調な宣教結果は自らの力によって成し遂げたものだ、と思い上がったかもしれません。彼は自らの弱さを通して人間理解が深まったに違いありません。パウロは弱さを通して、自分に対しても、他者に対しても、ありのままの姿を受け入れるようになった、つまり自由になったのです。
今は対面形式による礼拝をささげられるようになりましたが、今後もオンライン礼拝や文書形式による礼拝を選択する方がいることを忘れてはなりません。それぞれ個別の事情によってその礼拝形式を選び取る私たちの信仰の歩みに主が寄り添ってくださることを、主によって変えられたパウロの姿を通して私たちは確信するのです。