「また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」
マタイによる福音書10章38-39 節)
朴 思郁 協力牧師
本日の聖書は、主イエスが来られたのは、「平和をもたらすためではなく、剣をもたらすため」(34 節)であると言います。イエスの言葉は、私たちが持っているこの世に平和の王として来られたというイエスのイメージに相反するように思われますが、これは十二人の弟子を派遣する際の言葉でした。10章には「イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった」(1 節)と言います。それに続く内容には、遣わされた弟子たちがどこにいくのか、どのように対応するのか、何を伝えるのか、起こりうることは何なのか、そして緊急時にはどうするのか、などなど、派遣されるにあたり、弟子たちに求められる心構えや指針が記されているのです。10 章全体には、そのような内容が綴られていますが、本日の箇所もその一部なのです。
実は、本日の聖書の箇所は、イエスのオリジナルではなく、旧約聖書を引用したものです。「息子は父を侮り/娘は母に、嫁はしゅうとめに立ち向かう。人の敵はその家の者だ。」(ミカ 7:6)という言葉を引用されたのです。ここの旧約聖書で預言者が示していることは、神が新しいわざを行われるときに、起こりうる分裂について預言しています。言い換えれば、神が御業を行おうとする際に、そこには、何かの変化があるより、今のままが良いという立場の人々がいるということです。つまり、主イエスが言われる「平和ではなく剣をもたらすため」という、「剣」とは、文字通りの武器や暴力というより、主イエスの教えや生き方に従って生きるにつれて起こりうる、人々の間に起こる分裂、対立を表す象徴的な言葉なのです。
それに関連して主イエスは、「自分の十字架を担って私に従いなさい」と言われます。主イエスの弟子として歩もうとする人は、主イエスが示されたように、自分もいのちを捨てても御心に従おうとする覚悟が求められるということです。それは、ある意味、この世に逆らって生きることであるかもしれません。自己実現を目指すのが、この世の生き方であれば、それとは違って、自分を無にして、主イエスの教えを自分の生き方として受け止めて、それに従って生きることは、この世に抗って生きることに他ならないのです。確かにこの世の多数派に逆らって、この世に抗って生きることは決して簡単なことではないことは言うまでもありません。しかし、主イエスは、私たちに呼びかけておられます。「この世に抗って、私に従いなさい」