「わたしたちは洗礼者ヨハネからの使いの者ですが、『来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか』とお尋ねするようにとのことです。」
ルカによる福音書7章20節
朴 思郁 協力牧師
待降節にあたって、聖書の人物の中で思い出す人の一人は、バプテスマのヨハネです。彼は、ルカによる福音書の最初にイエス様の降誕との関連性を強調する誕生の物語が記されていますが、最後に「幼子は身も心も健やかに育ち、イスラエルの人々の前に現れるまで荒れ野にいた。」(ルカ1:80)と記されています。荒れ野は、索漠たる環境の、人間にとって暮らしにくい場所を思い起こさせます。しかし信仰の観点からみると、荒れ野は、神に出会う場所です。とりわけ荒れ野をあらわす「ミドバル」は、神の言葉、神の臨在する至聖所の言葉と同じ語源を持っています。待降節をお迎えして、何よりも私たちがバプテスマのヨハネを通して教えられることは、日常から離れて、御言葉に耳を傾けることの重要性を改めて覚えなければならないということです。
バプテスマのヨハネは、イエス様が公生涯を始めるときに、大勢の人々の前で、イエス様が「神の小羊」「神の子」であると、公に紹介する重要な役割を果たしたり、自分の弟子二人にイエスを紹介して、彼らが自分を離れて、イエスの弟子入りをするようにしたりするなど、イエスの初期活動を支援しました(ヨハネ1:35-37)。しかし本日の聖書には、いかにも確信を持ってイエスに対する信頼を寄せていたバプテスマのヨハネが、「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」と、イエスの正体を疑っているような内容が記されています。バプテスマのヨハネも人間であるがゆえに、自分の置かれている厳しい状況において、主イエスに対するメシアとしての期待が、自分が思っていたのと違ったため、焦り始めていたのかもしれません。
主イエスは、バプテスマのヨハネの弟子たちを通して、ご自分の正体を尋ねられたとき、イエスかノーかとお答えになるより、バプテスマのヨハネの弟子たちに「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい」と言われました。主イエスは、バプテスマのヨハネのお尋ねに直接的に言及せずに、その代わりに改めて神の御言葉に立ち返ることの重要性を促しているように思われます。主イエスは、「主を待ち望む者として」持つべき姿勢が如何なるものなのかを教えてくださっているのです。私たちそれぞれが自分の信仰を振り返り、改めて「主を待ち望む者として」持つべき姿勢を整えるアドベントを過ごしたいと願います。
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