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主日礼拝宣教要旨

2022年11月20日(日) 主日礼拝宣教要旨 「この世に遣わされた者として」ヨハネによる福音書20章19-23節

「イエスは重ねて言われた。『あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。』」

ヨハネによる福音書20章21節

朴 思郁 協力牧師

 本日の聖書には、復活の主イエスが、不安と怖れの中にある弟子たちに現れて、改めて主イエスによる平和を思い起こしてから、「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」と言われました。この箇所で注目すべきである「遣わす」という言葉は、ラテン語で「ミット」と言いますが、ここから「ミッション」という言葉が由来します。そして、「使徒」という言葉も「遣わされた者」という意味です。
  主イエスの生涯を吟味すると徹底的に「遣わされた者」という意識に生きていたのがわかります。主イエスは、「主なる神が私をこの世にお遣わしになった」という自己理解をもって公生涯を成し遂げていました。そして使徒言行録には、主イエスによって「遣わされた人たちの記録」が記されています。初代教会以来の二千年のキリスト教の歴史は、「遣わされた者たち」による歴史です。そういう意味で、イエス・キリストの復活の出来事以降、「遣わす」という言葉が、教会の基礎であり、キリスト教を特徴づける言葉になっているのです。
 そういう意味で、私たちクリスチャンに関する最も的確な定義は、「遣わされた者」です。さらに教会に関する最も大切な定義は、「遣わされた者たちの集い」と言えるのです。言い換えれば、私たちがこの世にいるのは、神の御心を行うために遣わされたと受け止めて、この世におけるそれぞれの生の営みも、主イエスによって遣わされた者として生きるという意味をもっています。それゆえ、私たちは「私の果たすべき役割は何でしょうか」と神に祈っていかなければならないのです。
 確かに神はある人を名指しで呼ばれ、特定の働きのために遣わされます。いわば、私たちが「宣教師」や国外における「働き人」などと呼んでいる人たちです。しかし、彼・彼女たちだけが宣教師・働き人ではありません。私たちすべては、何らかの形で神の宣教に携わるものとして召され、遣わされているので、私たちも宣教師・働き人なのです。キリストの体となる私たちの教会が常に耳を澄ませて神の御心を祈り求めながら、この世に遣わされた群れとしての役割を果たしていくことができればと願っています。

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