「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。わたしの助けは来る/天地を造られ
た主のもとから。」
詩編 121編 1-2 節
西川口キリスト教会 朴 思郁 協力牧師
私たちの人生は、長い旅路にたとえられます。その旅路の中で様々な喜怒哀楽を経験しながら、それぞれの人生を生きているのです。今日の聖書は、それを山々に例えているように思われます。つまり、山々が自分の前に立ちはだかっているという表現の中には、人間誰もが経験する人生の様々な困難と悩みが示されているように思われるのです。それは信仰に生きる人も例外ではありません。なぜ私たちの人生には、そのような苦難や逆境が尽きることなく絶えず起こるのか、それに関連して幾つかの理由をあげることができると思います。
まず、私たちの罪のためです。私たち人間は、生まれながら自己中心的な罪の本性を持っているがゆえに、絶え間なく過ちを犯してしまいます。罪の程度は違うかもしれませんが、それらの罪と過ちが苦難と逆境の直
接的な原因となります。もう一つ考えられるのは、「ヨブの試練」です。それは、人間の罪や過ちによる逆境とは違って、何らかの理由がわからないまま苦難に遭遇する場合もあるということです。最後に、私たちを鍛錬するためです。聖書には、私たちの信仰生活を戦いにたとえていますが(エフェ 6:11-17)、一人の兵士が一人前の兵士に整えられていくためには、訓練を受けなければならないと言います。
私たちが思いもよらない試練や苦難に遭遇した場合、どうすれば良いのでしょうか。何よりも、試練に出会ったときに、挫折したり、絶望したりしてはならないということです。如何なる場合にも、私たちは、これで終わるわけではないという姿勢が何より大切であることを忘れてはなりません。また、私たちは、試練に遭った時、神に信頼を置かなければなりません。私たちが信じている主なる神はどんな方であるかを常に覚えなければなりません。
自分の力ではどうにもならないと思われる時、私たちは、天地をお造りになった神がすべてを治めておられることを思い起こすことができます。私たちの力は、他ならぬ、天地をお造りになった方から与えられることを思い起こすのです。それは、何の差別もなく、限りなく、誰にも与えられる神の恵みなのです。その恵みが確実に現れているのが、他ならぬ、主イエスの十字架なのです。天地をお造りになった方が、その独り子をお与えになったほど、私たちを愛しておられることを覚えることです。そこから私たちの助けが来るのです。
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