「だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」
マルコによる福音書14章21節
西川口キリスト教会 四津 明美
受難節の今、イエス様による弟子の裏切りの宣告とその前後の弟子たちの様子から、私たちに語られていることをご一緒に聞いていきたいと思います。
最初に示されるのは、人間の自己中心という罪についてです。弟子たちは自分が思っていたメシア像のイエス様と実際のイエス様の違いが少しずつはっきりしてきて、イエス様に対する信頼に不安が生じました。現在の私たちとイエス様の関係はどうでしょうか。十二弟子が覚えたであろう戸惑いと似たものを、たぶん私たちもこれまでに感じた経験があり、また今現在感じることがあるのではないかと思います。
二つ目に示されるのは、しかしそのような自己中心の私たちであっても皆赦されている、愛されているということです。イエス様はこれから起こるユダの裏切りをご存じだっただけでなく、ユダがこれから体験するであろう、困惑と後悔と絶望を予見され、深く憐れまれたのでした。冒頭の聖句は、ユダに対する皮肉でも呪いの言葉でもなく、深い憐みの言葉です。それは深く愛することから来るものです。過越しの食事の前にイエス様は弟子たちの汚れた足を洗われました。裏切るユダの足もです。誰一人として、イエス様に放っておかれる者、取り残される者はありません。誰も置いてきぼりにしないという神様の愛が十字架の贖いの死に象徴されています。イエス様は裏切る者とも共におられるのです。
最後に交わりの大切さを示されます。ユダは他の弟子仲間には相談せず、一人で裏切りを考え、決断し、実行します。後悔を感じても自分のことは自分が責任を持たなければと一人で抱えこみました。一方、ほかの弟子たちは一度は皆逃げ去りましたが、再びエルサレムに戻ってきています。エマオへ向かうクレオパともう一人の弟子のエピソードは有名です。「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか。」と二人は言います。イエス様について語ること、信仰について語ることは私たちにとっても祝福です。そうすることのできる仲間が教会を通して与えられています。
さまざまな困難や弱さが私たちの教会にも与えられています。しかし、聖書に「信仰が無くならないように祈った。」とあるように私たちはイエス様に祈られてきました。これからの私たちの歩みにも伴ってくださるイエス様を信じてまいりましょう。