「わたしは、強く雄々しくあれと命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。」
ヨシュア記 1章9節
朴 思郁 協力牧師
新年明けましておめでとうございます。新年におかれまして、神の恵みと憐れみが教会員皆様の上に豊かに注がれますよう心からお祈り申し上げます。今年最初の礼拝を捧げるに当たり、私たちが新年の歩みの中で持つべき信仰の姿勢についてご一緒に考えることができればと願っています。本日の箇所には、神がモーセの死後、その後継者になるヨシュアにアブラハムに与えてくださった約束を思い起こさせてくださることが記されています。その約束の中に示されている内容から教えられることは何でしょうか。
まず、神はどんな方であるかについてです。言い換えれば、神理解を確かめることです。アブラハムからイサク、ヤコブを経て、430年のエジプトの生活を経てヨシュア時代に至るまでの物語を振り返ってみて考えられるのは、歴史の激しい流れの中で、私たち人間は、歴史の変化や周囲環境の流れに翻弄されやすい、きわめてもろい存在であることです。反面、神は単に遠いところにおられる存在ではありません。神は、とうとうたる歴史の流れのど真ん中におられ、その歴史を御自身の目的である完成へと導かれているのです。私たちは、神は、将来に必ず成し遂げてくださるという希望をもって、如何なる境遇の中でも、今を生きることができるのです。
また、神の言葉の大切さについてです。それは、神理解とも関連のある事柄として、神の言葉に関する理解です。神は「この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみ、そこに書かれていることをすべて忠実に守りなさい」と言われました。それは、単に聖書の命令や戒めなどを文字通り守るより、常に自分の生の営みにおいて、「主イエスならどうされるだろうか」と自分に問いかけながら、その言葉に応えて生きることを意味していると思います。それゆえ、朝ごとに書かれた聖書に親しんでいくことは欠かせない日課になるのでしょう。
最後に、神の約束に対する応答についてです。言い換えれば私たちそれぞれの生き方が問われるということです。本日の聖書には、何度も「強く、雄々しくあれ」という言葉が繰り返されています。私たちが神の言葉に促されて、応答として私たちが持つべき姿勢がそのように示されていると思います。私たちは「未知の世界」に向けて、いかなる場合にも主なる神が伴ってくださることを信じて、「希望の源なる主と共に」歩ませて頂きたいと願います。
アイキャッチ画像 Gerd AltmannによるPixabayからの画像