「大祭司は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な人、迷っている人を思いやることができるのです。」
ヘブライ人への手紙5章2節
西川口キリスト教会 朴 思郁 協力牧師
私たちが主イエスを覚える際に、最も多く言われるのは、おそらく「友なるイエス」というイメージではないでしょうか。とりわけ、新生讃美歌431番「いつくしみ深き」は、最も多く歌われている曲であると思います。「友なるイエス」、そのイメージから私たちが教えられる主イエスと私たちの関係をご一緒に考えることができればと願っています。
まず、「友なるイエス」は、人間の弱さを抱えているということです。大祭司は、民の代わりに神の赦しを求めるために、唯一神の前に出ていくことが許されていました。いつも民の側に立って、悩み苦しみを聞いてくれたり、時には戒めや助言をしてくれたりするなど、人々の生の営みのために、いなくてはならない大切な存在でした。しかし大祭司自身もいろいろな弱さを抱えている並の人間でした。それゆえ神の前に出て多くの民の代わりに神の赦しを求めているときに、彼自身も他人事ではなく、感情移入してまるで自分自身のことであるかのように切実に神の赦しを求めていたのです。
また、大祭司から教えられる「友なるイエス」は、神に選ばれたという意識の中で生きるということです。ここでは、最初の大祭司であるアロンの事例をあげています。アロンが大祭司になったのは、全く神の御旨とお召によってなされました。聖書はイエスをアロンに例えています。主イエスは、終始一貫して主なる神によって遣わされ、自分のなさっていることが神に託されていることであるという意識を持ち続けていました。主イエスは、今自分がここにいるのは、神によって生かされているという意識があったからこそ、十字架に続く茨の道を歩むことができたのでしょう。
最後に、「友なるイエス」は、ひたすら神の御旨に委ねているということです。言い換えれば、神のご計画に信頼し続けて生きることです。ここでは、大祭司のメルキゼデクを紹介していますが、メルキゼデクに関して、私たちが覚えておきたいことは、私たちの人智を遥かに超える神のご計画に従って生きることの大切さです。主イエスは、あらゆる苦しみの中でも、神に委ね続けていました。そのような私たちの「友なるイエス」が私たちと伴ってくださることを覚えることは、なんと素晴らしいことでしょう。私たちの「友なるイエス」は、どんなときにも、いかなる場合にも、「変わらぬ愛もて」、私たちを導いてくださることを覚えつつ、これからの人生の旅路を歩んでいきたいと願います。
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