コヘレトの言葉1章1-3節、12章13節
朴 思郁 協力牧師
本日は、2021年度の召天者記念礼拝を教会の皆様と共に捧げることになりました。召天者記念礼拝に際して、主の御もとに召された方々を覚えると同時に、私たちそれぞれの人生について改めて考えるときになればと願っています。
さて、本日の聖書は、「コヘレトは言う。なんという空しさ/なんという空しさ、すべては空しい。」と言います。果たして「すべては空しい」という言葉は何を意味するのでしょうか。それは、どうしても私たちは自分の人生が何なのかわからないし、またすべての存在を可能にする実体を掴むことができないし、また究極的な価値を感じることができないということから来る「虚無意識」であると思われます。「コヘレトの言葉」は、終始一貫それらの事柄を問いかけ続けています。
一方、「コヘレトの言葉」は、もう一つの主題を取り上げています。つまり、私たちが日々食べたり、飲んだり、働いたりする日常のことは、神が私たちに与えてくださった贈り物であるということです。「人だれもが飲み食いし/その労苦によって満足するのは/神の賜物だ、と」(3:13)言います。それは、神が与えてくださったからすべてが可能という認識なのです。言い換えれば、私たちは恩恵を受けて、恵まれて生きていると受け止めることです。すべてのものは神から与えられた贈物として受け止めるようになると、私たちの持つべき態度は、他ならぬ「感謝の心」なのです。
コヘレトの言葉を通して私たちの人生には二つの翼があることを教えられます。一つは、いつか私たちは死ぬべき存在のであるということです。つまり私たちは間もなく死ぬという認識の翼です。もう一方は、今自分が生きていて、ここに存在するということは、他ならぬ神が自分に与えてくださった贈物であるという認識の翼です。私たちはそれらの二つの翼をバランス良く羽ばたきながら、それぞれの与えられた人生をかけがえのない人生として過ごすことができればと願います。愛する方を主の御もとに見送られたご家族の方々の上に神様の慰めと励ましが豊かにありますようお祈り申し上げます。
アイキャッチ画像 anncapicturesによるPixabayから