左右田 理 牧師(大宮バプテスト教会)
「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」
マタイによる福音書27章46節
イエスの十字架のまわりには人の中に巣食うさまざまな攻撃性、排他性が渦巻いていました。ある者は地位や名誉や財産を守らんがために(41節)、ある者は他人の苦しみをただ眺めて冷笑するゆえに(39節)、ある者は自暴自棄ゆえに(44節)その心が攻撃性、排他性に蝕まれていました。しかしイエスは裁き返しません。ただひたすら、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(46節)と神にのみ訴え、神にのみ叫びます。それは“神も仏もあるものか”というような絶望に沈み、自暴自棄となった者たちに、再び神を見上げさせる救いの言葉となったのではないでしょうか。
実際、十字架のイエスの叫びは、十字架のイエスを眺めて嘲っていた人々の魂を揺さぶり始めていました。旧約の預言者による救いを思い起こさせられた者(47節)、イエスの痛みに応えようとし始める者(48節)、旧約の救いがイエスを通して本当に成就するかどうか注目し始める者(49節)…十字架の叫びは、人々を冷笑に蝕まれた傍観者然とした生き方から解放する出来事となります。歴史の主の救い、その約束に向かって改めて目を開き、耳を開くよう招く言葉、心を揺さぶる出来事となります。
心の揺さぶりは“イエスの復活ののち”も続きます。それは復活した聖徒たちがエルサレムに入場したという不思議な描写で残されています。(52~53節)さぞや多くの人たちの心が揺さぶられたことでしょう。マタイによる福音書の執筆時期は、紀元70年頃のエルサレム崩壊から約10年後と言われます。心の拠り所である聖地を失い、“神も仏もあるものか”という絶望、自暴自棄に誰もが陥っていた頃でしょう。しかしマタイによる福音書は途方に暮れている今こそ十字架の叫びが、救いの出来事として訪れていると訴えます。“復活の聖徒”という象徴的表現を通して、今こそ絶望に寄り添う十字架の愛が訪れ、互いのうめきに耳を傾ける愛に生きるよう招いていると訴えます。十字架の叫びは復活の命でした。そしてこれからも世界各地に、永遠に響き渡ることでしょう。絶望や自暴自棄に直面する人々の目が、耳が、ひたすら救いの約束に開かれていくために。