川越キリスト教会 丸山 勉 牧師
「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。」
マタイによる福音書20章14節
主イエスが語られた「天の国」の譬えです。この中で、朝早くからぶどう園で働いた労働者が賃金を受け取った時の「わずかしか働かなかったあの連中と同じにするのか」との憤りは、私たちも心当たりがあると思います。自分の価値を認めてくれていないと感じるからです。しかし、そもそもどの時間から働いた労働者も主人から招かれたのが出発点です。高ぶる理由などありません。「天の国」は、全く平等です。それは、体を持って生き、やがて死んでいく私たちの命が全く平等であることと同じです。
神様は旧約聖書の時代から何度も何度も、罪ある人間をご自分の方から招かれました。しかしそれでも招きに応え切れない人間の姿を見ました。神様は「この終りの時代」(ヘブライ1:1)に遂に、ご自分の独り子をこの世に送られたのです。夕方5時の招きです。闇が支配する前に「まことの光」として主イエスはやって来て私たちを招かれたのです。どうしてそこまでされるのか?そのお心が憐みに燃えているからです。「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたい」と。そして、十字架と復活という形で、ご自分の命を献げつくして下さったのです。理屈を超えた愚かしい愛です。けれどもこの愛がなければ私たちはずっと孤独の中に立ち尽くし、「誰も雇ってくれる(愛してくれる)者がないのです」と言うしかないのではないかと思います。
新型コロナ・ウィルスがまた猛威を振るっていますが、私たちを本当に捕えているのは、コロナのような非人格的なものではなく、文字通り血が通ったこの主の大きな憐みです。ですから私たちは、誰かとの比較や競争心の中で生きることではなく、この主に救われた喜びに生きて行きたいと思います。多分主が「最後の者から」賃金を支払った、としたのは、この世の価値から私たちを自由にするためだと思います。皆等しく1デナリオンで良い。皆等しく一つの命があるように、皆誰もが一つのイエス様の命で生かされるのです。それで十分です。それが救いです。
アイキャッチ画像 Peggy ChoucairによるPixabayからの画像