朴 思郁 協力牧師
「何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある。・・・神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。」
コヘレトの言葉3章1-11節
本日は、新形コロナウイルスの感染拡大を防ぐために、例年とは違う形で2020年度召天者記念礼拝を捧げることになりました。主の御もとに召されました46名の方々を、ご家族の方々と共に偲ぶ召天者記念礼拝に当たって、何よりご家族の方々の上に神様の慰めと励ましが豊かにありますよう心からお祈り申し上げます。
旧約聖書の「コヘレトの言葉」には、私たちの人生における様々な事柄には、それぞれにふさわしい時があり、すべてのことは「時」という「定め」によって支配されていると言います。そもそも「時」というのは、漢字では、「日が進んでいく様子」を表わす言葉で、「時間の流れ」を示しています。しかし、旧約聖書では、「時」は時間の流れそのものではなく、むしろ瞬間や出来事そのもの、または「ある出来事が起こること」を意味しています。
古代ギリシア人は、時間を「クロノス」と「カイロス」、二つの言葉に表しました。「クロノス」が、24時間という時計の中の時間として、客観的に定められた時間を生きる生き方を表すのであれば、「カイロス」は、機械的な時間に縛られず、主体的に自分の人生を生きる生き方を示しています。要するに、「クロノス」の時間は、過去、現在、未来へとただ単に流れていきますが、「カイロス」の時間は、現在が過去と未来を抱きしめて共に生きる、永遠につながる時間なのです。私たちは、その時その時に流れている「クロノス」の時間の中で、永遠に残る「カイロス」の時間を生きていかなければならないのです。
イエスは、「クロノス」の時間で言えば、たった33年の生涯でした。しかし、イエスは、公生涯での「カイロス」の時間によって、今も永遠に生きていると言えるのでしょう。イエスの生涯を動かしたキーワードは「時」でした。つまり、福音書の至るところで見られるイエスは、何事にせよ、常に神を意識しながら、如何に生きるべきかを考えながら、懸命に「カイロス」の「時」を生きておられたのです。まさに「いかに長く生きたかではなく、いかによく生きたかが問題である」という警句は、イエスを指しているような言葉です。
私たちの人生は、ある意味、この先に何が起こるか分からないまま生きていると言っても過言ではありません。しかしそのような不確かさの中でも、私たちは、時間に流されて生きるのではなく、むしろ神を意識しながら、最善を尽くしていく、それこそが、他ならぬ「神の時」を生きることであることを覚えつつ歩んでいきたいと願います。