西川口キリスト教会 四津 明美
あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。
コリントの信徒への手紙一 12章27節
コリント教会には、商業都市の性格、ギリシア神話に見られる多神教の宗教、ギリシア哲学の土壌と言うようなことから、様々な国籍の、食文化も生活様式も違う人たちが集っていました。また教会の中では、賜物として異言を語れるか語れないかという事も、その人の信仰のレベルを示すものになっていたようです。こうしたことから、分裂の危機にありました。パウロはアドバイスします。
12章13節「私たちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるためにバプテスマを受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。」そして、冒頭の言葉を語ります。同時に
「それどころか、体の中で他よりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。」(22節)と言います。それは「体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合」(25節)うことになるからです。「弱さ」への配慮は教会がキリストの体として存続するために必要なことなのです。そして「弱さ」は私たちが皆、抱えているものです。
弱さへの共感と対処を最高の形であらわしてくださったのがイエス様の十字架です。パウロにとって、自分の生き方の根本を変えたのは十字架にかけられたイエス様との出会いでした。キリスト教の大迫害者から大伝道者へと変えられたのです。私たちもこのイエス様と出会った一人一人です。十字架によって罪を赦された者同士です。
主任牧師不在、新型コロナウイルス感染防止のため会堂での礼拝をしていない私たちの教会は今、試練の時にあります。が、集まれない中でさまざまな方法で礼拝を続けています。時間と場所に制約されない、以前は考えられなかった方法で、同じみ言葉に養われるという事が可能になりました。この礼拝の多様性を受け入れていく中で、古い価値観と新しい価値観のせめぎ合いを私たちは生きることになるのだと思います。
そのときに私たちは「キリストの体の部分」同士であること、お互いが「キリストの体とされて」いるということを覚えていきましょう。今与えられている試練の中で、「それに耐えられるように備えられている逃れの道」の一つなのではないかと思います。「耐えられないような試練に遭わせることはなさらない。」この同じ手紙の10章13節にあるこの約束に信頼して歩んでまいりましょう。
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