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主日礼拝宣教要旨

2020年6月28日(日) 在宅主日礼拝宣教要旨 「神の言葉の働き 〜お互いはキリストの体ひとつひとつ〜」テサロニケの信徒への手紙一 2章1-13節

高崎キリスト教会 森 淳一

 このようなわけで、わたしは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです。                      

テサロニケの信徒への手紙一 2章13節

 パウロのテサロニケ伝道は「使徒言行録」17章に書かれています。テサロニケの町での働きは、パウロを妬む人たちによる妨害もあって、かなり厳しいものであったようです。結果的にパウロはテサロニケの町を追われ、直接的にはテサロニケ教会との関わりを持つことができなくなりました。落ち着かない気持ちでいたであろうパウロに、伝道者の教え子でもあるテモテから、テサロニケ教会のその後の様子について報告が届きました。その報告には、やむなくパウロがテサロニケの町を去った後も、テサロニケ教会の人たちが信仰生活を続けて教会を守っているとの知らせがあったようです(3:7)。パウロは「激しい苦闘の中で」(2:2)語った言葉が、「神の言葉」として受け入れられ働いていることを喜び、「テサロニケの信徒への手紙一」を書いたのでした。上記の2章13節は、そのときのパウロの気持ちがよく表れているでしょう。

 それにしても「人の言葉」と「神の言葉」…、私たちはこれらをどのように理解すればいいでしょうか。宣教では2つのことをお話しします。1つは、パウロとテサロニケ教会の人たちとの関係に注目します。パウロは自分とテサロニケ教会の人たちとの関係を、家族の関係に譬えています。そのような関係性の中で語られる「人の言葉」が、「神の言葉」に“させられる”ことを心に留めたいと思います。そしてもう1つは、「人の言葉」が「神の言葉」として働くとき、そこに葛藤や摩擦も起こってくるということです。「神の言葉」は、この世の価値観や常識を揺さぶります。そこにも「人の言葉」が「神の言葉」と“させられる”大切な要素があると思います。

 

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