西川口キリスト教会 戸田浩司
さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。
ヨハネによる福音書6章11節
5節の「どこでパンを買えばよいか」とのイエス様の問いかけに対しフィリポとアンデレの答えは、これだけの人々の空腹を満たす量のパンを用意することができない、というものでした。
空腹を満たすパンで思い出すのは、エジプトを脱出するモーセの一行が天から降ってきたパンで空腹が満たされたという出来事ですが、この天から降ってきたパンと、イエス様が与えるパンとでは決定的な大きな違いがありました。それはイエス様ご自身が命のパンである、ということでした。
「どこでパンを買えばよいか」というイエス様の問いかけは、イエス様にしるしを求めようとする大勢の人々に、イエス様が与えたいと願う本当の命のパン、すなわち、み言葉をどう与えたら良いだろうか、という問いかけであり、イエス様ご自身が命のパン、み言葉そのものであることを理解してほしい、というイエス様の願いでもあったのではないかと思います。
今日の聖書の話しは4つの福音書すべてに記述がありますが、マタイ、マルコ、ルカの福音書とは異なる点として、11節でイエス様がパンを「自ら」分け与えていることが挙げられます。
イエス様が直接人々に食べ物を配る、ということには、イエス様自らが生きる命のパンであることを目の前の弟子と群衆に示し、かつイエス様が群衆一人ひとりに積極的に関りを持とうとしてなさったことではないか、と思わされます。
積極的に私たちに関わろうとしてくださるイエス様が、「私が命のパンである」ことを自ら示し、そしてそのパンを私たち一人ひとりが受けることを望んでおられる、そのような恵みの幸いを感じます。
今、私たちの教会では、主の晩餐式をしばらく行っていませんが私たちが正しく理解しなければならないことは、主の晩餐にあずかった人が救われるのではなく、救われた者が主への感謝、恵みの応答として主の晩餐にあずかる、ということです。イエス様と一緒の食事にあずかるという恵み、すなわちイエス様の命のパンがすべての人に分け隔てなく与えられているという恵みを共に覚えながら、来るべき主の晩餐式の再開に備えたいと願います。