朴 思郁 協力牧師
「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、12:2 信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。」
ヘブライ人への手紙12章1b-2a節
「信仰の章」と言われるヘブライ人への手紙11章には、神を信じて救いを得るために、この世の中で信仰の戦いを徹底的に貫き、勝利を得た数十人の信仰の先達たちの名前が綴られています。その手紙の記者は、彼らを「『信仰によって』勝利を得た人たち」と言います。彼らの特徴は、忍耐し続けることでした。言い換えれば、彼らにとって信仰とは、忍耐に他ならないものでした。信仰は忍耐であり、忍耐することが信仰だったのです。信仰と忍耐は切り離すことの出来ない、表裏一体の関係にある事柄なのです。
聖書は、「おびただしい証人の群れ」である信仰の先達たちがずらり並んでいる中、最も注目すべき方は、私たちの信仰の模範であるイエスであることを強調しています。主イエスの公生涯は、まさに「忍耐の連続」と言っても過言ではありません。救い主としてこの世に来られた主イエスは、馬小屋の飼い葉桶からゴルゴタの丘の十字架に至るまでの険しい道を忍耐しながら走り抜かれ、ついにこの世に来られた救い主としての使命を全うし、勝利を得られたのです。主イエスの忍耐こそ、「完全な忍耐」と言えるのです。
主イエスの示してくださった忍耐から二つの特徴を学ぶことができると思います。その一つは、主イエスの忍耐は、走りながら耐え忍ぶ「忍耐」でした。福音書には、イエスを神の子と認めようとしない人々から主イエスが苦しみを受けていることが記されています。しかし、主イエスは、彼らの反抗を忍耐しながら、絶えず神の国を宣べ伝えていたのです。忍耐しながら福音を伝え続ける、それが走りながら忍耐する、主イエスが示してくださる忍耐なのです。
もう一つ、主イエスの忍耐は、喜びをもって耐え忍ぶ「忍耐」でした。たとえ十字架は恥そのものであり、十字架の死は残酷の極まりであっても、その後に迎える栄光を待ち望みながら、喜びを持ってその死を受け入れたのです。喜びを持って十字架を耐え忍ばれたのです。今週一週間も「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」走りながら耐え忍ぶ「忍耐」、喜びをもって耐え忍ぶ「忍耐」を心に受け止めて誠実に歩んでいきたいと願います。
アイキャッチ画像 Thank you!! to Photo by Marc-Olivier Jodoin on Unsplash