朴 思郁 協力牧師
「主に依り頼む人は、シオンの山。揺らぐことなく、とこしえに座る。山々はエルサレムを囲み/主は御自分の民を囲んでいてくださる/今も、そしてとこしえに。」
詩編 125章1-2節
私たちは、それぞれの人生の旅路を歩んでいます。その旅路では、様々な要因から来る不安を抱えて生きていると思います。私たちは、聖書を通して、その不安について、またどのように対応すべきなのかについて教えられます。
まず、私たちの心に不安がつきまとっているのは、実存的不安を抱えているからです。聖書には、至るところに人間の不安な様子が滲み出ています。例えば、「(主は)まどろむことなく、眠ることもない」(詩編121:4)という言葉は、人間の抱えている不安が、如何に深いものなのかをよく表しています。ある意味、人間は、誰もが潜在的な「不安障がい」を持っています。そういう意味で、「コギト・エルゴ・スム」(我思う故に我在り)を用いると、「私は不安である故に私は存在する」と言えると思われます。
また、私たちは、外部から襲いかかってくる要因のために不安を覚えます。私たちはこの世の中でありとあらゆる悪や不条理に直面して生きていかなければなりません。社会的構造から来ることもあれば、人間の罪深さから生じてくることもあります。私たちは、いろいろな要因によって、惑わされたり、振り回されたりします。そういうときにも、主は私たちを離れることなく、伴ってくださることを覚えなければなりません。いかなる場合にも、主は私たちを見捨てない方であることを想起することによって、外部からの要因によって生じる不安に打ち勝つことができるのです。
最後に、私たちは不信仰のゆえに不安に苛まれることがあります。信仰の旅路の中で、傲慢かつ独善的な姿勢や誤った信仰理解によって、不信仰に陥ることが起こりうるのです。信仰があるがゆえに不信仰に陥り、不安に駆られることがあるのです。不信仰に陥ることなく生きるために、私たちに求められるのは、他ならぬ「D・O・G」の信仰です。それは「Depend On God」、つまり「神に頼る」「神にゆだねる」という意味です。「不安な時こそ」、神に信頼して生きる信仰の姿勢を改めて整えていきたいと思います。
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