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主日礼拝宣教要旨

2020年2月9日(日) 礼拝宣教要旨 「十字架と向き合う」マタイによる福音書16章21-28節

斎藤 信一郎 牧師

それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」

マタイによる福音書16章24節

 直前箇所では、自分に危険が降りかかることを承知の上で、主イエスこそ神の子であり、救い主だと告白したペトロ。それを最大限評価し、その信仰を土台に教会を建てると宣言した主イエスでした。これを踏まえ、主イエスはまもなくユダヤ教の指導者たちから苦しめられ、十字架刑によって殺され、かつ復活することを語り始めます。しかし、十字架刑というものは、最も残酷な刑罰であるだけでなく、死んでなお、地獄における極限の苦しみに遭うことを意味するものでした。ペトロは直ちに主イエスの発言を撤回させようとします。しかし、それは神から託された使命を放棄することを意味していました。そのため、主イエスはペトロのことをサタンと呼び、厳しく戒めます。人間的な価値基準に従うのではなく、同じ十字架を背負う者となることを主イエスは呼びかけられたのです。
 この世の価値基準、評価基準とは異なる基準がキリストの教えには存在します。どれだけ自分よりも他人を大切にできたか。どれだけ相手の欠点や過ちよりも、相手の長所を評価する言葉を口にできたか。どれだけ許せない人々のために執り成し祈ることができたかなどです。そのためには、主イエスのように自分を裁く側から、裁かれる側に身を置くことが必要です。そして、得するよりも損する覚悟。理解されるよりも誤解される覚悟。賞賛されるよりも自分の人格や考えを否定される覚悟が必要となります。十字架刑に至るまで、主イエスの生涯はその連続だったと言えます。主イエスは27節で弟子たちを励まし、天においては神の基準に従ってどう生きたかに応じてそれぞれに報いがあると教えます。そして続く28節では、各自の十字架と向き合いながら、世の終わりまで、主イエスと共に歩む弟子たちが続いていくことになると励まします。私たちも聖霊の助けにより、その信仰を継承していくことを期待されているのです。


アイキャッチ画像 thank you!! to Gerd Altmann from Pixabay

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