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主日礼拝宣教要旨

2019年9月1日(日) 礼拝宣教要旨 「イエスのいる風景」 マタイによる福音書 11章28-30節

朴 思郁  協力牧師

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

                マタイによる福音書 11章28-32節

 レバノン出身の作家、カリール・ジブラン(1883-1931)の『預言者』は、「20世紀のアメリカで聖書の次に売れた本」として知られています。その本が出版して以来、40ヶ国語に訳され、時代と文化、宗教を超えて、多くの人々に愛されているのは、人生の中で疲れを覚えている人々に、人生における様々な事柄の本質を鋭く見抜き、物事に対する固定観念を覆して、新たな受け止め方を提示しているからではないかと思います。
 イエスの言われる重荷とは、単純に精神的な悩みやプレッシャーという意味より、前後の文脈から、律法学者や宗教関係者たちによって解釈され、課せられた律法に関する「言い伝え」を意味すると思われます。12章には、その事例として、安息日をめぐる二つの論争が記されています。弟子たちが安息日に麦畑で麦の穂を積んで食べたこと(1-8節)、イエスが安息日に片手の萎えた人を治したこと(9-14節)を、宗教指導者たちは「労働」とみなして、「安息日の規定違反」と定めたのです。
 要するに、二つの出来事から、当時の民衆は、宗教指導者たちによって強いられている、種々のノルマを抱えて、常に自分は何か間違いを犯しているのではないか、いつ叱られるかもしれないと、戦々兢々としている様子が伺えるのです。私たちの生活においても、安らぎが得られると思っていた宗教が、ときには聖書の言葉でさえも、自分の人生のための力になるどころか、いつの間にか、自分の生活を縛り付けて、身動きが取れなくなる重荷になってしまうことがあります。
 大工さんとして、軛を直接つくったり修繕したりして、誰よりも軛に詳しいイエスの「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」という招きは、「私とあなただけの関係性をしっかり築き上げよう。そうすればどのように生きるべきかを私に学ぶことになる」という意味なのです。言い換えれば、それは、他ならぬ、イエスの精神、生き方、ものの見方を身に着けていくことを意味すると思います(参照、フィリピ2:6-8)。主イエスと「二人ペア」の軛を負って歩いている、その「イエスの居る風景」を思い描きながら、それぞれの人生に励んでいきたいと思います。


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