斎藤 信一郎 牧師
『イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。』
マタイによる福音書16章15-16節
主イエスはエルサレム行きとそこで待ち受けている受難を弟子たちに予告する直前に、弟子たちに特別な質問をするため、フィリポ・カイサリア地方に行きます。そこはガリラヤ湖から約40㎞北東にあり、当時はギリシャの神々、古代シリアの寺院、そしてローマ皇帝を祀った神殿等が集中し、偶像礼拝が盛んな場所でした。そのような場所で、キリスト教信仰の根幹に関わる大切な質問を弟子たちにします。それは、人々が主イエスのことを何者だとうわさしているのかという問いでした。これに対する弟子たちの答えは、主イエスをメシア=キリスト=神に油注がれた者(王)そのものではなく、そのお方が出現する直前に現れると聖書が預言しているエリヤのような大預言者だという答えでした。
この質問の後で、15節のように今度は弟子たちが主イエスをどのような存在だと理解しているかを尋ねます。ペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えたことを受け、主イエスは「このことを現したのはわたしの父なのだ。」と最大限の評価をします。そして、18節ではこのようなペトロのものの見方こそ教会の土台となるべきだと語り、これこそ天のみ国へと人々を繋いで行く大切な信仰だと教えられました。
この教えを現代に生きる私たちはどのように受け止めればいいのでしょうか。「あなた方は…(誰々を)…何者だというのか」。それは、隣人を普段どのように他の人に語っているかという問いでもあります。その人を主イエスと重ね合わせ、その人を主イエスが愛し、十字架に掛かられたほどの存在だと認めていることが分かる会話を主イエスはして欲しいということです。互いに家族、教会員、また友人についてキリストの愛が注がれている存在だということを意識しながら語る時、教会の土台は岩のように盤石に築き上げられていくのです。このような会話が多い教会をキリストは特別に喜んで下さるのです。
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