朴 思郁 協力牧師
「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。」
エフェソの信徒への手紙2:14-15a
8月となり、改めて「平和」について考えるときを迎えています。私たちが「戦争の記憶」を召喚するのは、単に過去の出来事を思い出すためではありません。それは他ならぬ「今を如何に生きるか」について考えることです。つまり戦争をはじめとする、人生における様々な葛藤や対立を引き起こす要因について考え、今、ここで、他者と共に生きる姿勢を整えることが何より大切であると思われます。
初代教会が抱えていた課題の一つは、ユダヤ人と異邦人の間にある葛藤の克服でした。そもそもユダヤ人は自ら「神の選民」であるという過剰な自意識の故に自分たち以外の異邦人を敵と見なしました。異邦人がユダヤ人を傲慢かつ偏狭な人たちと思っていたのはごく自然な対応でした。初代教会における宗教慣習を巡って、割礼や食べ物など、ユダヤ教に由来する律法規定の厳守を主張するユダヤ人のグループと、一切の律法規定から自由になったと信じる異邦人のグループの間には、その考え方の違いによる対立が後を絶ちませんでした。
初代教会の葛藤の本源となった律法の問題は、今を生きる私たちと無関係な事ではありません。律法をめぐる初代教会における葛藤の本質は、他ならぬ自分の信念や主張を絶対化して、相手を自分に隷属させようと企てることです。言い換えれば、「こうであるべき」や「こうしなければならない」という絶対化した決まりごとや主張などを設けて、相手の上に君臨し支配しようと試みることです。歴史の中でも、神の名のもと、敬虔と善意を装って、数え切れないほどの過ちを犯してきました。それらの過ちによってつくられた数々の隔ての壁によって分断されたまま生きているのです。
聖書は、その解決策として「キリストはわたしたちの平和であります」と言います。互いに「敵意」を持っていた二つのグループが、今や一つになったと教えられます。それが可能になったのは「御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊した」からです。私たちがキリストによる平和に与るということは、主イエスによって成し遂げられた「神の義」の前に立つことです。それは、キリストの十字架と復活を通して、この世界、教会、そして自分自身と他者を見ることでもあります。そのときにこそ、ありとあらゆる「隔ての壁を超えて」、キリストの平和を体験しながら生きることができるのです。
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