「自由意志」と「律法」が与えられているのが人間であり、それらはユダヤ人でなくとも各々の心の中に刻み込まれている。たとえ「十戒」を知らなくとも、人間の心の中にある「良心」が証しする。
「良心」とは「生まれながらに神の御心が刻まれている心」であり、その人の思いや行いが、「もともと刻み込まれた神の御心に沿っているか否か」を証言するものである。この「良心」という言葉の原義は「共に知る」ということであるが、それは「神の御心を我々が神と共に知る」ということにつながる。我々は神の戒めと願いが刻み込まれた心を持っているために、「本来、人間はどのように生きるのが正しいのか」ということを知っており、それを踏み外す時に「良心」が痛むのである。
神は人間に「良心」を与えると同時に「十戒」を与え、神の御心を明らかにされた。「十戒」の前半部分は「心を尽くして神の御心に従って生きることにより、神の栄光をあらわせ」という命令であり、後半部分は「自分自身を愛するように、互いに愛し合え」という命令である。このように神は「律法」を示しながら、人間が自らの自由意志によってそれに従って来るように願っておられる。また、そのような関係が神と人間との本来的な関係である。
しかしながら、このように「律法」が与えられているのに我々はそれに背く。これが「罪」である。この「罪」により、この世界は歪められている。そしてその「罪」に対する「悔い改め」がなければ、終わりの日に神によって責任を問われる。人間は自らの自由意志をもって神に従うよう願われて造られたにもかかわらず、自分勝手に生きており、そのために神の栄光を受けられない存在になっている。そして「悔い改め」のないところには「裁き」としての「死」が定められている。これが「罪と死の法則」である。
「罪を忍耐する」神は、時至って、ご自身のほうから人間に対する「愛」をあらわされた。神があらかじめ準備した「救いの計画」は、律法と預言者によって示され、イエス・キリストにおいて完全に明らかにされた。主イエスは人間の受けるべき「罪と裁きの死」を代わりに身に負うことにより、信じる者は「罪と死の法則」から解放されて「神と共にある永遠の命の法則」にあずかることがゆるされるようになった。これが「霊の法則」である。
「主イエスを信じる」ということは、「信じてバプテスマを受ける」ことと不可分である。バプテスマとは「主イエスの死と復活にあずかる救いのしるしをこの身に刻みつける」ことであり、決して「救いの条件」ではない。我々は「信じて」バプテスマを受けるのであり、そこでは信仰が先立たなければ意味がない。そして、バプテスマによって「救い」を常に身体に刻み込まれて生きていく新しい人生が始まる。キリスト者は今や、罪ゆるされ死の法則から解放され、生命の道を歩むものとされた。
キリスト者はそのことを常に感謝して生きる。しかし、神を喜び信頼し、御言葉に従って生きようとする時、「律法」を知れば知るほど、自らに内在する頑固な「罪の力」が心の深くに巣食っていることを知り、悩む。これはまさに「神に従う者の悩み」である。キリスト者が「神の栄光をあらわす者」として御言葉に従い、神にのみ信頼して生きていこうとするときに「わたしはなんとみじめな人間なのでしょう」(7:24)と叫ばざるを得ない。しかし「生命の法則」の中に捕らえられているのがキリスト者である。キリスト者の生は、一面では「罪に苦しみ歩み」であるが、それゆえにまた、「喜び」が増し加えられた歩みでもあると言える。