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地域と共に歩む桜並木の教会

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2010年7月14日

 この「詩編」の歌い手は決して「月星太陽」を「神さまだ」と言っているのではない。それを配置した神を賛美しているのである。天体は、偶然ではなく秩序と調和を持って配置された。神はその「指の業」(4節)をもって、すべての被造物の細部に至るまで素晴らしく造ってくださった。人間のDNAにはそれぞれの暗号が詳細に刻みこまれていることを現代の人間は知っている。神の「指の業」の素晴らしさを思わずにいられない。そう思わないほうが不思議に思えるほどである。

 しかしながら、この世界に存在するすべてのものを「偶然の産物」であると結論付ける人々もいる。「宇宙は偶然の重なりあいのなかで進化してきた」と信ずる人々にとっては、その中にいる卑小な人間は「いてもいなくてもいい存在」になってしまう。信仰の事柄は理詰めで説得することのできないものである。それを思うと「信じる」「信仰に導かれる」ということは、実に不思議なことである。世界を「信仰の目」で見るとき、我々は天地を造られた神を賛美するようになるのである。 

3節には「幼子、乳飲み子の口によって」神の威光がほめたたえられるとある。これは「たどたどしい口」を意味する表現である。「神を正しく言い当てている言葉を我々は言うことができない」というへりくだった気持ちがこのような表現になっている。

 「そのあなたが御心に留めてくださるとは人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう あなたが顧みてくださるとは」(5節)と詩人は歌う。人間をはるかに超えた存在である神が我々を顧みてくださること、それを不思議に思いその恵みに感謝して賛美しているのである。神の計らいに気付かされていくとき、我々は自分の人生を本当に肯定できる。「所詮自分は、たまたま生まれた、あってもなくてもいい存在だ」という思いではなく「こんなに小さくても、神におぼえられているわたし」に気付かされ、感謝できる。苦しいことがあれば「こんな人生、意味がない」と命を絶ちたくもなるし、実際そのような道を選び取ってしまう人々が増えている。その苦しみ悲しみを思う。しかし、それでも我々は神におぼえられている。神に顧みられている。どんなに小さくても「生きる」ということの尊さが、そこにある。このような単純な信仰が与えられていることを感謝したい。

 我々が立たされているのは不安な世の中、これからどうなるのか分からないような日本社会である。とりわけ先進国においては信仰が無価値なものになってきていると言われ、また「世俗化」ということが言われるようになって久しい。いわゆる「キリスト教国」と思われるような国においても、若い人々の「教会離れ」は著しい。一方、現代においても、熱心な賛美や祈りなどに力を入れ、身をもって「解放」を体験できるようなスタイルの教会には多くの人々が詰めかけている。この厳しい社会の中で追い詰められている人たちに手を差しのべているのはそのような教会であるという事実がある。そこにある課題を共有しつつ、我々の教会は「神は顧みてくださる」という福音を語っていかなければならない。 

 「人の子」(5節)とは「人間」「死にゆくもの」を意味する。人間は「永遠の存在」ではない。「土から造られたもの」(創世記2:7)、すなわち「土に帰るもの」である。「だからどうでもいい」というのではなく、神はそのようなはかない存在である我々をも顧みて心に留めてくださる。我々はそのゆえに生きることができ、生きることの大切さを知ることができるのである。

賛美の詩は「神に僅かに劣るものとして人を造り なお、栄光と威光を冠としていただかせ 御手によって造られたものをすべて治めるように その足もとに置かれました」(6−7節)と続く。神は我々を心に留めてくださるだけではなく「神の器」として用いてくださる。人間には、神が造られたものを正しく耕し正しく治めていく仕事が与えられているのである。ただ人間が「万物の支配者だ」といって勝手に何でもしてよいのではない。あくまでも神に委ねられているのだから、神の御心に沿って役割を果たすべきなのである。与えられた自然を感謝してその恵みを享受するだけではなく、「託せられたもの」として自然に仕え対応することが求められている。

 6節の「神」は「神々」とも訳せる語であり、セプチュアギンタでは「天使」と訳された。「天的な存在として」というニュアンスの込められた語である。人間は「神の似姿」に、すなわち「神に向き合うもの」「交わりを持つもの」として造られた。それは「神と人間が対等」ということではない。「神のイメージ(人格)も持つもの」として自由な責任を持って神に応答していくように、神は我々を造ってくださったのである。「神の似姿」であることを失ってしまった我々に、それを回復させるため、イエス・キリストが来てくださった。キリストこそ、まことに「神の似姿」としての存在である。そして、神のイメージを示し我々の中に「神の似姿」を回復させその栄光にあずからせてくださる方なのである。

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