ようこそ西川口キリスト教会のホームページへ

地域と共に歩む桜並木の教会

教会員ページ
未分類

2010年5月12日

 

 その時、弟子たちは主イエスが一緒におられることに気付く。しかし「イエスは眠っておられた」(24節)。恐れ戸惑う弟子たちとは対照的な姿である。弟子たちは主イエスを起こし、「主よ、助けて下さい。おぼれそうです」(25節)と言った。すると、主イエスは彼らに「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ」と「言われた」(26節)。この「言われた」という言葉は、原文では現在形(「言われている」)で記されている。そして主イエスが「起き上がって風と海とをお叱りになると、すっかり凪になった」(26節)。すると人々は「いったい、この方はどういう方なのだろう。風や湖さえも従うではないか」と言った(27節)。嵐を沈める主イエスへの驚き、賛美、「この方こそ天地を創造し支配する神の子だ」という信仰告白である。福音書はこうした出来事を体験した弟子たちが、主イエスの復活を経て教会が誕生した後に、人々に語り聞かせたことを書き記したものであると想定される。そういう意味において、福音書は単なる「主イエスの伝記」ではない。そうではなく、主イエスの出来事を復活の光に照らして、「今もこの方が生きて一緒におられる」ということを語っているのが福音書である。それゆえに先ほどの26節のように、「主イエスは言っている」という現在形が用いられているのである。

 当時の教会に語られたメッセージは、聖書を通して今日の教会、今日の我々にも語られている。復活によって始まった、主イエスに従う群である教会と、主イエスは今も共に生き、共に「向こう岸」に渡ることを命じ、共にそのわざを成してくださるのである。教会はしばしば、湖の上で嵐に見舞われる。初期の教会は同胞のユダヤ人から迫害されローマからも皇帝崇拝を強要される時代の中に立たされ、振り回され沈みそうになっていた。そうした迫害に耐えられず、信仰から脱落する信徒もいたことであろう。しかしそのような状況の教会の中で、ペテロたちは自分たちが経験した主イエスを人々に証しし、「今も生きている主イエス」を教え、「主イエスはあのときわたしたちに語って下さったように、今も語り、嵐を沈めてくださる方だ」と語った。吹けば飛ぶような、小舟のように小さな群である教会が、向かい来る嵐を乗り越え主イエスのわざを広めていった。主イエスと共にある教会の歴史を、我々は知ることができる。

 今日、教会が出遭う「嵐」はどのようなものであろうか。それは福音書の書かれた時代の「嵐」とは違うものである。今日、日本においてはキリスト教に対する直接的な迫害は少ない。しかし偏見や無関心、価値観の違いという困難は日々、我々の前に立ちはだかっている。そしてその中で宣教していこうとする時、教会は様々な壁にぶつかる。宣教において順風満帆にはいかないという状況としては、かつても現在も同様である。そうした時、「この先、教会はどうなるのか」と思うようなこともある。日本の教会は壁にぶつかっている。教勢という観点からしても全体的に衰退していると言わざるを得ない。とりわけ、地方の教会は懸命に主イエスに仕えつつも困難に直面している。日本バプテスト連盟加盟教会・伝道所全体におけるここ20年間の教勢を見ると、バプテスマを受ける人が年間600人くらい与えられ、他教派からの転入も多い。それにも関らず、ここ20年間で全体の信徒数はほとんど増えていない。教会から出ていく人も多かったこの20年間であった。そこには個人的な問題もあろうが、教会にも課題が山積していることを再確認しなければならない。教会がガタつき動揺することもあるし、そのことで教会が嫌になって離れていく人もいる。個人的な生活の中で信仰を与えられても、周囲の無理解の中で信仰生活を手放していく人もいる。

 主イエスに従うからといって嵐に遭わないのではない。何より大事なのは「主イエスがおられる」ということである。弟子たちは嵐に遭い恐れていた時、主イエスがおられることを忘れていた。「助けてください」と叫ぶこと、祈りの声をあげることが大事である。様々な状況の中で、主イエスに叫んでいけば良いのである。その叫びを聞かれた主イエスは、「眠いからほっとけ」とはおっしゃらない。まず「信じなさい、わたしが一緒にいる」と言葉をかけて下さる。今も昔も永遠に変わることのない主イエスが、この我々を呼び集め、信仰を与え、声をかけて下さっている。その声を聴いていくことが、教会にとって一番大切なことである。教会生活においても個人の歩みにおいても、ただ状況に振り回されるのではなく、主イエスの声を聴いていくこと、主イエスに向かって叫びをあげていくことが、主イエスに従うことなのである。

関連記事

PAGE TOP