本日の箇所は、そのような時代を映し出している。『マルコによる福音書』はユダヤ戦争の前後にかかれたと推定されている。『マタイによる福音書』記者は『マルコによる福音書』を知っており、その伝承を参照しつつ独自の資料を使用し自らの福音書を編集した。『マタイによる福音書』成立時期に関しては「エルサレム陥落前」「エルサレム陥落後」の説に分かれているが、いずれにせよ80年代半ばまでには成立していたと考えてよいであろう。福音書記者は自分たちの状況もふまえて主イエスの説教を語っている。語られている内容と語られる時代の状況とは無関係ではないのである。
主イエスが「幸いである」と語りかけた人々は、個人的にも社会的にも「苦しみを負わされている人々」であった。「心の貧しい人々は、幸いである」(5:3)との言葉を『ルカによる福音書』は「貧しい人々は、幸いである」(ルカ6:20)と記した。なぜ『マタイによる福音書』記者は「心の」と言う言葉を加えたのであろうか。この部分は、原文では「《霊の》貧しい人々」となっている。日本語で「心が貧しい」と言うのとは異なるニュアンスを持つ表現である。「霊」は「神との関係、交わりを持つ場所」である。「霊」が、すなわちここで言うところの「心の貧しい」とは「神を求めることにおいては飢えている」状態を指す。神に依り頼む以外に術がない、神に期待するように追い込まれている人々が「心の貧しい者」なのである。貧しさ苦しさの中で神を追い求め、主イエスの言葉を追い求める者が「幸い」な、神の祝福にあずかる者なのである。
「天の国はその人たちのものである」(5:3)。『マルコによる福音書』と『ルカによる福音書』では「神の国」と言われているところが『マタイによる福音書』では「天の国」となっている。『マタイによる福音書』記者が語りかけた対象は、主にユダヤ人であった。「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」(出エジプト20:7)との戒めに従い、「神」という言葉をそのまま用いるのを憚ったと考えられる。「国」とは既に学んできたように、「領域」ではなく「支配」を指す。「神があなたがたと共にいる」「あなたがたは神の手の中にあり、ひとりひとり覚えられ愛されているから見捨てられることはない」「神はあなたがたを子として取り扱っている」というのが、この箇所の中心的なメッセージである。
「悲しむ人々は、幸いである」(5:4)。ここで言う「悲しむ人々」とは、もはや他人の言葉では慰められないような悲しみにうちひしがれる人々である。例えば、愛する家族を失った者、いまや死を前にしている者、差別やいじめのゆえに孤立してしまった者、そのような者こそ「幸い」であると聖書は語る。なぜならそのような者にこそ神の慰めがあるからである。「そのような状況におかれていても、生きていてよいのだ」という祝福のメッセージである。
「柔和な人々は、幸いである」(5:5)。苦しみによって「打ち砕かれた心」が「柔和」な心である。「主は打ち砕かれた心に近くいまし」(詩編34:19)たもう神の祝福が「柔和な人々」に注がれる。そのような人々は「地を受け継ぐ」(5:5)。苦しみの多いところであっても、「この地において生きよ」と神に命じられているのである。
これらの言葉は、ひとつひとつ「神との関係」と関連づけて受け止め語られている。「神はあなたがたの人生を覚えて受け止めているのだ」というところに中心のメッセージがある。今日、主イエスの言葉において我々はどのように喜んだり慰められたりしているのであろうか。かつてソ連が崩壊する前、「キリスト教の教えは貧者への教えだ、阿片だ、人々を現実から逃避させる」という新聞記事が書かれた。この「宗教は阿片」という表現は、ある意味でどこか当たっていると思われる。本当の苦しみの中に置かれている者は、神に頼る以外にないからである。そしてそこに立たなければ、本当の神の祝福、ここで言われるような「幸い」は分からない。このような「幸い」は「地上の幸い」とイコールではない。また、壮絶な生きる苦しみの中で神に依り頼む生き方はなかなか簡単にできるものではないし、そのような苦しみの中にある人へ神の言葉を届けるのは難しい。しかしそれでもこの神のメッセージを必要としている人々に、教会は神の言葉を届け、「自分の弱さや苦しみの中で神の恵みを知る」ことの喜びを語っていかなければならない。近年、教会を訪れる人々の中には、人生の様々な苦しみの中に置かれ切羽詰まってやむなく教会を訪れたという人が多くなっている。教会はそのような方々をどのように受け止めていくのか。大きな、大切な課題である。