「初めからあったもの」(1:1)という言葉は、ヨハネによる福音書の「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった」(ヨハネ1:1−2)という箇所を思い起こさせます。「キリストは神である」とする聖書の信仰の中心的な内容です。これに対して「イエス・キリストは神による被造物であり、我々と同じ人間だ、神ではない」「神が人間の姿をとるはずはない」などという考え方が、形を変えては挑んできたのです。
「わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について」(1:1)。この言葉は、「人間にとって精神性こそ重要であり高貴なことである」とし、物質性、特に肉体を軽視して放縦に振舞うことを許し、信仰を揺さぶる教師たちへの反論です。ヨハネは、「神はイエス・キリストとして、五感で判る肉の体をもってわたしたちに現れた」と、イエス・キリストが神であり人であることを、具体的にやさしく表現して信仰を支えました。「ヨハネの手紙一」はこのような目的で書かれていて、現代においても、読む者に、神の子キリストは我々の中に実際に生きた方であり、キリスト者は、父なる神と子なる神との交わり(コイノニア)を共にしていく中で正しい信仰を得られると、明確に示しています。
3章の1,2節を学びます。それぞれに「神の子」「今、既に神の子」という言葉があります。この箇所での「神の子」という呼び方は、「イエス・キリストは神の子であり、救い主である」という場合の「神の子」とは意味が異なります。イエス・キリストに当てはまる「神の子」という言葉は「フィオス」(ギリシャ語で「息子」)であり、1,2節で語られる「神の子」は「テクナ」(ギリシャ語で「子どもたち」)という言葉で言い表されています。両親が愛情を込めて「子どもたち」と、わたしたちに呼びかける言葉です。
神がわたしたちを、愛情を込めて「神の子どもたちよ」と読んでくださっている。これ以上に単純で優しい言葉が他にあるでしょうか。親の呼びかけを疑う子どもはいないように、神を真の父と認めることができるならば、なんと安心なことでしょう。「呼ぶ」ということは「認める、保証する」ということでもあります。このことをわたしたちに明らかにしてくださった方がイエス・キリストです。
2節に、「今、既に神の子ですが」とあります。「・・・ですが、」となっているところを「・・・です。」と区切っている翻訳が、古い聖書には多く見られます。新共同訳聖書で「・・・ですが、」となっているのは、後に続く「自分がどのようになるかは、まだ示されていません」という部分までを一区切りとして纏めたためです。
この言葉の理解は、わたしたちが「神の子」であるかどうかは、キリストの再臨、終末においてやがて明確になるということです。それにしても「今、既に神の子」と断言されていることと、それがどう繋がるのでしょうか。2章28節に「御子のうちにとどまりなさい。そうすれば、御子の現れるとき、確信を持つことができ、御子が来られるとき、御前に恥じ入るようなことはありません」とあります。幼子が両親に身を委ねるように、わたしたちが神を認め委ねるならば、「示されていない」将来のことは心配ない。人生には本当のものがある。今頂いている「神の子」という恵みの中、確信の中に生き、「やがて御子をありのままに見る」という安心の中に憩うべきであると勧められているのです。(石垣茂夫神学生)