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地域と共に歩む桜並木の教会

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2009年6月3日

 パウロは、そのような教会の指導者たちをただ尊敬するのではなく「愛をもって心から尊敬する」(15:13)ようにと勧める。教会が建てあげられるためには、ひとりひとりが指導者を尊敬して祈り愛することが必要である。 そのような中で、教会の中に主にある平和が与えられるのである。

 「怠けている者」(15:14)とはそもそも軍隊用語であり、「秩序を乱す者、規律なき者」を指す。教会の文脈で読むならば、「キリスト者として守るべきつとめを投げ出している人」「それぞれ与えられたたまものに応じて働きを担い教会をたてあげる働きを放棄した人」と解釈することができる。そのような者たちは戒められなければならない。「気落ちした人」(15:14)とは、別の訳では「小心な者」とされる。信仰生活において問題にぶつかるとすぐ落胆してしまう人のことである。「弱い者たち」(15:14)とは、精神的な弱さをも持つ人々である。そのような人々には、励ましと助けが必要になる。「忍耐強く接しなさい」(15:14)とは「寛容でありなさい」とも訳出される。相手をありのままに、弱さを持っているものとしてそのまま受け入れることが求められている。教会はいろいろな人が召されているのであるから。お互いが受け入れあっていくところで、教会は成熟した群れとして育てて頂ける。集う全員が強い人ばかりだったらなら、それは教会ではないのである。

 「悪を持って悪にむくいることのないように」「いつも善を行うように」(15:15)とは、一般的な倫理でも同様に言われるところであるが、特に、この時代に始まったばかりで迫害妨害される教会にとっては必要な勧めであった。「迫害する者のために祈りなさい」と命じられた主イエスを教会は常に思っていなければならなかった。「努めなさい」とは「継続せよ」との勧めである。「努力を継続する」のは、我々にとっていかに大変なことであろうか。 

 「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」(15:16−18)とは、大変有名な聖句である。フランシスコ訳では「いつも喜びを忘れずにいなさい」、リビングバイブルでは「いつも祈りに励みなさい」と訳されている。どのように訳したらみんなの心に届くか苦労した訳と言える。「喜び」はパウロの愛した言葉であり、手紙に頻出する言葉である。嬉しいことがあったからではなくどんな時も、主に結ばれていることを覚えて主にあって喜ぶ。主がいっしょにいてくれるから喜ぶ、喜んでもいいのだ、ということをパウロは繰り返し教える。「絶えず祈りなさい」「どんなことにも感謝しなさい」とは、「神に喜ばれる生活をせよ」との勧めであり、それを具体的にしたものがこの3つなのである。人生には感謝できない、喜べないことがある。「祈れ、喜べ、感謝せよ」と言われたからといってできるものではない。しかし、祈っていく中で周りの状況に左右されない喜びを頂くことができるのである。「喜び」「感謝」は「聖霊の実」であり、自分の努力では生み出せないものである。更にこれら「聖霊の実」は「祈りの賜物」、すなわち祈りによって与えられるものであり、そのような意味では3つの中で一番重要なものが「祈り」であると言える。

 「喜び」も「感謝」も、聖霊によって与えられるものである。我々が聖霊の働きを無視して、聖霊の導きを求めなくなるとき、それは「霊の火を消す」(15:19)ということになる。「霊の火を消してはいけません」とは、「祈り続けなさい」という教えである。 

 預言は聖霊のたまもののひとつなので軽んじてはならない(15:20)。今でいえば、「預言する者」とは、神の言葉を預かって語る「説教者」のことである。そしてその「預言」は教会を建てあげる。

 しかし我々は語られるすべてのことを無批判に受け入れてはならない。我々はそれを「吟味」(15:21)しなければならない。何が良いものか判断する基準は、「それが教会を建てあげるものであるか否か」という点である。反対に「悪いもの」(15:22)とは、教会を建てあげることを妨げる、一致を妨げる、交わりを壊すものを指す。

 「平和の神」(15:23)とは、十字架によって我々と和解してくださった愛の神である。単なる形容ではなく 本当の平和をくださる神である。パウロはここで「霊、魂、体」(15:23)という表現で人間をあらわしているが、人間の本質を3つに分けて別々のものとして考えるのではなく、それらの総合としての全人格としての「人間」が意図されている。敢えて意味づけをするならば、「霊」とは神と向き合い応答しつながることのできる場所であり、「魂」とは「心」とも訳せる、精神的なもの一切である。「体」は文字通り「肉体」である。本来の聖書の人間観は「体」をないがしろにしない。共にひとりの人間として他者と関係するために必要な「体」を、我々は頂いている。そして復活のときには「新しい体」を頂けるというのが我々の信仰である。

 パウロはテサロニケの人々のために祈った。その意味でこの手紙は「祈りの手紙」であるとも言える。パウロもまた彼らの祈りを必要とした。伝道者が神様から託された働きをするためには兄弟たちの祈りや導きがなければその使命を果たせない。「背後に祈りのない説教者は学者のように語る」のである。また、互いに祈り祈られていくことで教会が教会になっていく。

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