14節では、テサロニケの信徒たちが「ユダヤの、キリスト・イエスに結ばれている神の諸教会に倣う者」となったことがパウロの喜びとして語られている。これらの教会は、エルサレム教会をはじめとするユダヤ人教会であった。彼らの教会は、当地のユダヤ人たちから迫害を受けた。そして、テサロニケの信徒たちは当地のギリシャ人たちから同様に苦しめられた。それがこの「あなたがたもまた同胞から苦しめられた」(14節)という言葉の意味である。「使徒言行録」によれば、ここでもまず、「イエスをキリストと告白する」教えに反対するユダヤ人たちがテサロニケの教会やパウロの働きを妨害し、次第に周囲の人々を巻き込んでいったと伝えられている。
ところで、パウロは「わたしから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れた」(13節)として、このテサロニケの信徒たちの信仰を神に感謝した。ここでいう、パウロが語った「神の言葉」とは、「説教」のことである。「説教」もまた、「神の言葉」なのである。しかし、なぜ、そのようなことが言えるのであろうか。「説教」の名のもとに語れば、なんでも「神の言葉」になってしまうのであろうか。これは、説教者が絶えず自らの課題とするところである。聖書や信仰の事柄に関する自分の思いつきや感想を語っても「説教」にはならない。説教者がまず、聖書から神の御旨を正しく聴いていく、そしてそこから語るところに「説教」はおこされていく。パウロも、まず自らが聖書の指し示すところを受け取った。そして語った。それを、神は「神の言葉」として用いてくださる。聖霊の働きにより、このことが成るのである。聴く側が受け入れようと受け入れまいと、「事実」、神がそのようになさるとき、「説教」は「神の言葉」なのである。パウロは驚きをもってこのことを感謝した。
「自分の説教が、人をこのように動かした」とか「自分の説教で、人が信仰へ導かれた」と、説教者自身が誇るのではない。あくまでも、その「説教」が神によって用いられ、神御自身がその「説教」を聴く者を信仰者としてつくりかえてくださるのである。この出来事に身近に触れさせて頂けることが、説教者の光栄である。更にそれは、説教者だけではなく、神に仕える者たちが共に共有する喜びである。
「説教」もまた、神への「ささげもの」であり「奉仕」である。説教者はそれが神の御用のために用いられるようにと祈りながら、最善の準備をする。そして「説教」のわざは説教者個人のものではなく、教会全体のわざである。説教者は教会によって立てられた奉仕者であり、自らが選んだ「説教」の重荷を担う者のために具体的に祈っていくことが、教会全体の責任である。