「希望を持たないほかの人々」(4:13)とは、イエスの復活を信じていない人々である。やがて永遠の朝によみがえるいのちを信じることなく、「死んだらもう終わりだ」と考える人々である。しかし、そのこと自体も全く自明の事柄ではない。肉体の死の先にある世界がどのようなものであるのかは、誰にも分からないのである。それゆえに、「死んだらもう終わりだ」という考え方も、ひとつの信仰でしかない。しかし仮に「死んだらもう終わりだ」ということが事実であるなら、我々の人生はいかに空しいものであろうか。そしてこの「死」から逃れられる人間はひとりもいない。それゆえに、「死んだらもう終わりだ」と信じる者は、「死」についてなるべく考えないようにして生きていくしかないのである。
15節以下には、現代に生きる我々にとって受け止めにくい表現で「主の再臨」が語られている。初代教会の人々は、主の再臨を間近なものとして感じとっていた。この「テサロニケの信徒への手紙 一」も、パウロが再臨の事柄を非常に強調して描写しているため、パウロの書簡の中でも最初期のものであると考えられている。「復活」や「再臨」というような、信仰の事柄を語ろうとするとき、そこには語られる時代における「制限」というものが生じてくる。パウロの時代には、このように神話的な表現を用いて信仰の事柄を語ることがもっとも相応しかったのであろう。
我々もまた、自らが生きる時代の中で信仰の事柄を解釈し、語っていかなければならない。例えば、「天」(4:16)とは「空高いところ」ではなく、「人の目には見えない、神の世界」である。「雲」(4:17)という表現は、聖書の中で「神の臨在」をあらわすときに用いられる。「引き上げられ」(4:17)るというのは、人間が自らの意志で「昇っていく」ではなく、「ひったくられる」という原語のニュアンスのとおり、「一方的な神の行動、恵み」を示す言葉である。