「福音の宣教の初め」(15節)とは、ヨーロッパ伝道の「初め」を意味する。「もののやり取り」(15節)という言葉があるが、「もの」という言葉は原語にはなく、「交流」という意味合いが強い。パウロは手紙でみ言葉を語りフィリピの人々の信仰を励ました。そしてフィリピの人々はパウロの働きを覚えて支援した。既に学んだようにパウロは自給伝道を原則としていたが、人的物的支援を得たときには伝道に専念した。
「苦しみを〈共に〉してくれた」(14節)、「働きに〈参加〉した」(15節)とは、両方とも「交わり(コイノニア)」という意味を持つ言葉である。それは、キリストにつながる交わりである。伝道の働きにおいては、みんながみんな、同じ働きをするのではない。互いに賜物を持ち寄り、ささげ、主に仕える。この「賜物」とは単なる能力ではなく、「イエスを主と告白する働き」である。
「益となる」「実」(17節)とは、当時の経済用語では「利子」をあらわす言葉である。パウロは、ささげられたものが神により更に豊かな実を結び、神が我々にそれを与えて下さるということを表現しようとしてこのような用語を用いている。フィリピの人々がパウロに送った様々のものは、パウロ個人に送られたものではないとパウロは解釈した。それらはすべて、フィリピの人々が神にささげた献身の思いと愛であった。「それは香ばしい香りであり、神が喜んで受けてくださるいけにえです」(18節)。
「わたしの神は、ご自身の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます」(19節)。キリストを通して、経済的な「富」だけではなく、霊的な「富」も満たしていただける。「わたしの」という表現は、自分自身が神からそのように必要を満たされているのだという、パウロの信仰の確信であり、証しである。この部分は「わたしたちの父である神に、栄光が世々限りなくありますように、アーメン」(20節)という頌栄の言葉で締めくくられている。パウロは、苦境の中でも自分を支え満たしてくださる神をほめたたえずにはいられなかったのである。