パウロは、「主はすぐ近くにおられます」(5節)ゆえに、喜ぶようにと勧める。主は我々と遠く離れた存在ではなく、共にいて下さり、交わりを持ってくださる。「主との交わり」とは、祈り、信頼、御言葉の傾聴である。我々は単に主が「居る」と信じるだけではなく、主に絶えず目を向け、呼びかけ、御言葉を聴き、交わるのである。
「あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい」(5節)との勧めは何を意味するのであろうか。この「広い心」とは「寛容」「温和」「柔和」とも訳せる言葉である。そして、その「広い心」は自分が持ち合わせている性格的なもの、道徳的なものではない。「自分が寛大な人間である」ということをアピールせよ、とパウロは勧めていない。この「広い心」は、主が近くにいてくださるから頂けるものである。キリスト者は不安に取り囲まれているが、主が近くにいてくださるゆえにそのようなものにたやすく動揺させられない。主により守られ、心の平和を頂くことができるのである。
「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい」(6節)との勧めは、「考えるのをやめなさい」という勧めではなく、「主に委ねなさい」との勧めである。「思い煩いと祈りは両立しない」と言った人がいる。自分の思いを主に打ち明けるとき、思い煩いから解放されるからである。キリスト者は、信仰を持っているからといって、あらゆる悩みや問題が襲いかかってこないというわけではない。しかし、我々のために正しく配慮してくださる主が近くにいて下さるので、主にすべてを委ねることができるのである。
「祈りと願いとは違う」と言った人がいる。すなわち、「祈り」とは、特段の願い事がなくても、主と一緒にいたいがためにするものだというのである。キリスト者は常に時を定めて、主と語らう。その中で願いがあれば、求めているものを神に打ち明け、願い事がなくても、御言葉を聴き、思い巡らしながら、日々の様々な事柄を主にお話しするのである。
そのとき、「あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」(7節)とパウロは語る。「【心】は欲望の温床、【考え】は疑いや思い煩いの出てくるところ」と言った人がいる。我々には限界があり、ひとたび何か起こると、ひとたまりもなく倒れてしまう弱い存在である。だから、我々は近くにいて助けてくださる主に信頼しなければならない。人間の「心」や「考え」といったものを否定的にとらえるのではない。この揺れ動きやすい「心」や「考え」が、主によって守られていくことが大切なのである。