斎藤 信一郎 牧師
『イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。
わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」』
ヨハネによる福音書 14章6節
最後の晩餐の席で主イエスはもう一度弟子たちに大切な話をします。父なる神が用意しておられる神の国で弟子たちと一緒に住むことができるようになるために、しなければならない準備、行かなければならない場所があること。しかし、今は弟子たちにはその準備を手伝うことも一緒にその場所に行くこともできないと告げます。主イエスが意味していたのは、人類が神に背いて罪を犯したために閉ざされてしまっている神の国に生きるための道を開くために、主イエスが十字架の死とそれに続く死んだ人が行くことが定められている陰府に下って(つまり死後の世界で)過酷な刑罰を身代わりに受けることでした。それは、自分の赦されざる罪を認め、神に背いて生きてしまった人生を悔い改め、聖書が指し示す信仰を基準に生きることを選び取る人々を救う唯一の方法でした。それには人類でただひとり、神に対して罪を犯したことのない神のひとり子イエス・キリストが、自ら犠牲となって身代わりにその刑罰を受けて人類の罪をあがなう道しかありませんでした。その過酷な使命を果たすために、主イエスは、これまで三度も弟子たちに、キリストは十字架に掛けられて死ぬことが聖書に預言されていることを語り聞かせて来ましたが、彼らは自身の偏見や思い込みのために理解できないでいました。
主イエスはそれでも忍耐強く繰り返し様々な角度からこの福音について教え続けました。弟子たちがやがては理解できる日が来ることを信じていたのです。それは罪があがなわれ、その刑罰を免れるだけでなく、主イエスと共に神の国に生きる幸いの始まりを意味していました。すなわち、神に定められた罪をあがなう使命を果たした後、復活される主イエスは、信じるすべての人の進むべき道を正しく導いて下さるということです。しかも、そのために主イエスは私たちの人生の同伴者になって下さると約束して下さっています。「わたしが道」とは、主イエス・キリストが私たちの人生の同伴者となって下さるということです。それこそ神の国とその完成に向かって生きる最善の道なのです。