パウロは、獄中からこの手紙を書き送った。フィリピの教会の人々は、獄中のパウロを案じ、教会を代表してエパフロディトを送った。しかし、せっかくやってきたエパフロディトは、病気のために思うようにパウロの世話をすることができず、心を痛めた。パウロはエパフロディトをフィリピの教会に帰す際、感謝、励まし、信仰による勧め、教えを記した手紙を持たせたのである。他の手紙と同様、この手紙もフィリピの教会においてのみならず、近隣の諸教会においても回覧され、書写された。そして多くのキリスト者を励まし養った。このような形でパウロの手紙は残されていき、新約聖書に数多く収録されたのである。
パウロにとって、フィリピの教会は大変愛着のある教会であった。しかし、そこに何も問題がなかったわけではない。婦人たちの対立(4:2〜)、ユダヤ主義的キリスト者による伝道の妨害(3:2〜)などがこの手紙からも読み取れる。そのような教会に対し、パウロは「喜ぶ」という言葉を何度も送る。獄中の身、喜べない問題を抱える身でありながら、「主にあって喜びなさい、喜んでよいのだ」と繰り返す。
パウロは「フィリピにいて、キリスト・イエスに結ばれているすべての聖なる者たち」(1:1)という呼びかけをもって手紙を書き始める。「聖なる者」(口語訳では「聖徒」)とは、「清らかな人格を持つ者」ではない。なお、かわりばえのしない、罪を重ねる者であるにもかかわらず、神がご自身のものとして選びわけ、神の御用のために用いられる者という意味である。尊いキリストの苦しみで贖われ、神の民として迎えられた者が「聖なる者」なのである。この意味をわきまえたい。
パウロは「喜びをもって」(1:3)フィリピの信徒たちのために祈った。前述のとおり、フィリピの教会は喜ばしくない問題をも抱えていた。しかし、彼らは「福音にあずかっている」(1:5)。この「あずかる」という言葉の元々の意味は、「交わり」(コイノーニア)である。フィリピの信徒たちが福音、キリストとの交わりを頂き、その恵みを伝え、持ち運ぶ者とされているゆえに、パウロは喜ぶのである。
伝道はいつの時代にも妨害があり、仲間内の不協和音がある。しかし、「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださる」(1:6)。神は伝道のわざをやめてしまわれることなく、成し遂げてくださる。この希望がなくては、我々は伝道することができない。
更にパウロはフィリピの信徒たちが「知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように」(1:9−10)と祈る。キリストの愛を証しすることがキリスト者の使命であり、また「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」「隣人を自分のように愛しなさい」と求め招かれているのがキリスト者である。では、どのように証しし、どのように愛したらよいのか。そのためには「本当に重要なこと」を「知る」「見抜く」ことが必要である。「本当に重要なこと」とは、「神の御心は何か?ここで何をするのが神の喜ばれることか?」ということである。人間の愛には限界があるゆえに、我々にはどのようなことが「愛」なのか分からなくなる時がある。自分なりの「愛」から出た行為が、人を傷つけ、阻害するという場面を経験する。だから、御心を求め、聴き従うことが必要なのである。「知る力と見抜く力」を身につけた「愛」が必要なのである。「証しする」ということは、何か大それたことに思えるかも知れない。しかし、日々の生活の中で「キリストに愛される者として、愛していこう」とする生き方が、ひとつの大切な「証し」の姿である。