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主日礼拝宣教要旨

2019年3月3日(日) 礼拝宣教要旨 「嘆きを喜びの歌に」 イザヤ書 61 章 1―3 節

主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして/貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させるために

                                         イザヤ書61章1節                 

イエスはご自分がこの世に来られた目的について「わたしは・・・である」というたとえ話を用いて幾度も言われました。たとえば、ヨハネによる福音書10章には「わたしは良い羊飼いである」、11章には「わたしは復活であり命である」、15章には「わたしはまことのぶどうの木である」などがあります。様々なイメージを通して、イエスはご自分がこの世に来られた目的について誰にも分かりやすく説明しているのです。
 一方、ルカによる福音書には違う形でイエスのメシアとしての「自己理解」が記されています。安息日に会堂に行かれたイエスは、係の者から渡された巻物を開いて、イザヤ書61章1~2節を読み上げられました。そして、会堂に集まった会衆に「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と宣言されました。果たして、なぜイエスは、自分の公生涯の「就任の言葉」にあたる場面でイザヤ書の箇所を選ばれたのでしょうか。
 イザヤ書の内容は、バビロン帝国によってユダヤ人たちが捕虜としてバビロニアに強制連行され、侮辱を受けている状況で書かれたものです。それがまさにローマ帝国によって自由が奪われているイエスの時代の状況と似ていたのです。当時、イエスご自身も含めて、ユダヤの姉妹兄弟たちは、政治的、経済的に厳しい生活を余儀なくされていました。どこからも助けを得ることができず、希望を見出すことのできない過酷な生活を強いられていました。言い換えれば、神の他には頼るところのない「貧しい人々」でした。
 イエスは、イスラエルの歴史を振り返りながら、絶望のどん底に陥っている先祖たちを希望へと導いてくださった神の恵みを想起させることを通して、ユダヤの姉妹兄弟たちを励ましてくださるのです。それと同様に主イエスは悩み苦しみの中にあるわたしたちを慰め、励ましてくださいます。いかなる時にも、必ず、私たちの「嘆きを喜びの歌に」変えてくださいます。それを心に刻んで、「歌いつつ歩まん」と賛美しながら、与えられた人生を誠実に歩んでいきたいと思います。

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